大阪城天守閣は昭和59年(1984)3月に発行された『大阪城天守閣紀要』第12号において、9年に及ぶボーリング調査の成果を総括しています。そこでは昭和34年に発掘された石垣を中ノ段の石垣であるとする宮上茂隆氏の復元案が妥当であると結論付け、ボーリング調査手法の限界を認識しつつ「将来大坂城の構造を本格的に解明すべき調査が実施された場合に、それに一定の見通しを与えることができる予備的な調査であった」とまとめられたのです。
この天守閣紀要第12号は昭和59年3月31日に発行されていますが、その年の10月、大阪市水道局によって「大阪城大手前配水場配水池改良工事」が実施されます。そこで昭和34年の地下石垣発見に匹敵する大きな発見がありました。
今回は、昭和59年の調査から平成8年度の調査について紹介します。
「大阪城大手前配水場配水池改良工事」に伴い、配水池から本丸地下を通り西空堀に抜ける配水管入れ替え工事に伴う発掘調査が実施されました。調査が開始されたのは昭和59年10月8日で、10月18日の調査日誌に次のように書かれています。
「ф400(注:直径400㎜の水道管)掘削を西端より開始 西端部で東西方向の石垣を確認、水道工事に帯状にぴったりかさなるように石垣がはしっているようであるが、西端部を除きф900?の水道管(明治~昭和初期)埋設に伴い石は撤去されている。……」と石垣発見の状況が書かれています。場所からみて豊臣時代の奥御殿を巡る詰ノ丸石垣と考えられ、10月20日の日誌からは天守閣、大阪市教育委員会、市立博物館の学芸員や城郭研究家らが次々に現場を訪れ、新しい地下石垣の発見に高揚している雰囲気がうかがわれます。
この発見により、詰ノ丸の石垣が、現地表面から1.3mほど下より深くに埋まっていることが明らかとなり、宮上氏の復元案に近かったことが確認されることとなります。発見された石垣は後に隅角部を含んでいることが判明し、夏ノ陣図屏風や中井家に伝来した本丸図に描かれた豊臣期大坂城の隅櫓の位置が現地形のなかで確定されることになったのです。
写真1.発見された石垣(志村清氏撮影)
詰ノ丸石垣が発見された後となる昭和62年(1987)度に大阪城天守閣によって、豊臣期の天守台の石垣を確認する目的で調査が行われます。水道局が実施したボーリング調査(前号紹介の水道A)で石材に当たった地点を中心に、宮上茂隆氏の復元案を参考として調査地点が設定されています。
図1.天守閣による昭和62年度の調査地点詳細図
昭和53年(1978)度の水道局の調査で石材に当たった水-5の西側で3か所(62A,62A‘,62A“)のボーリング調査を実施しています(図1参照)。62Cでは地表下1.65mで石垣石と考えられる石材に当たったことから、62Cに近く掘削可能な62Fにおいて直径1.5mの範囲で発掘調査を行っています。調査では大きめの花崗岩とそれに接して栗石が見つかり、掘り出された石材が豊臣期の天守台北西部付近の一部であろうと推定されています。
調査地点は徳川期の本丸中心部と山里丸を区切る高石垣裏の雁木に近接しています。これまでに実施された徳川期の雁木の調査事例と比較しても、徳川期の高石垣の裏込めが埋まっている可能性が高い位置にあります。そのため、発見された「石垣」を豊臣時代の石垣と推定することは、慎重であるべきだと考えられます(※1)。
そして、大阪城天守閣による地下石垣探求のためのボーリング調査は、この年度をもって終了することとなります。
本丸西の空堀にある水管橋改良に伴い、水道局によって地下遺構の有無の確認を含めボーリング調査が実施され、平成7年(1995)度に水1~水6までの6ヶ所、平成8年(1996)度に水7~水18までの12ヶ所を調査しています(図2・図3参照)。
図2.昭和59年発見の詰ノ丸石垣の位置と今回取り上げる調査地点
図3.宮上茂隆氏重ね合わせ復元図と水道Bの調査地点の関係(宮上氏復元図に加筆)
平成7年度の調査では水1・3・5で石垣が確認されています。水1と水3は1.5mしか離れておらず、同じ石垣に当たっていると考えられています。水1では現地表下22.4mから24.0mまで石垣石材と考えられる花崗岩や砂岩、石英斑岩が確認されています。水5では、地表面下14.6mから14.9mまで火災層が確認され、その下14.9m~16.2mまで石材が確認されています。報告書(※2)では水5で発見された焼土層が下ノ段帯曲輪の地表面、水1・3で確認された石垣が本丸に入りこんだ水堀の西側の石垣であると推定されています。下ノ段帯曲輪の地表と考えられる焼土層は水7でも確認されています。(図3参照)
水2では現地表下7.75m~8.3mに火災層が見つかっています。古絵図に「米藏」と書かれた曲輪の火災層と考えられ、表御殿の地表面や、中ノ段帯曲輪の地表面と近い高さとなっています。
いっぽう、空堀を挟んだ西ノ丸地区で設定された水12では、地表面下約2mで石垣に当たっています。石垣天端は確認されておらず、西ノ丸の豊臣期の地表面の高さが地表下2mより浅いことが想定できます。
「建築文化としての大坂城石垣築造に関する総合研究会」(研究代表者 天野光三)によって平成8年(1996)度に実施されたボーリング調査です。文科省の科学研究費を取得した調査で、調査項目の一つとして本丸地区でボーリング調査を行っています。科研№1はミライザ大阪城の南の園路上で実施したもの、№3・4は徳川期の石垣面から本丸内部に向かい水平方向にボーリングした科研№3と、上方20°の角度をつけてボーリングした科研№4、東内堀の南部で実施した科研№5があります。また、徳川石垣の根石を確認するため動的コーン貫入試験(※3)が3本のライン(❶~❸)で実施されています(図4参照)。❸では水堀に隠れた徳川期の石垣基底が確認され、内堀❸地点の徳川期石垣の高さが直高32mであることが明らかにされています。
図4.科学研究費による調査地点詳細図
図5.図3ライン地層断面図
また、科研№4において徳川期の石垣と裏込めを貫通した内側で花崗岩などの石材が確認されています(図5参照)。確認された石材の高さは、すでに明らかとなっている豊臣期の中ノ段の標高に近く、豊臣期の中ノ段と下ノ段をつなぐ石垣が確認されたものだろうと推定されています。今後の資料の蓄積をまって検討する必要があると思われます。
昭和34年(1959)から平成8年(1996)度にかけて行われたボーリング調査について、3回にわたってその経緯と目的を中心に紹介してきました。まったく予想されていなかった昭和34年の地下石垣の発見と、昭和59年の詰ノ丸石垣の発見により、2か所の石垣の位置を確定させることが可能になったことで、豊臣期大坂城の研究は大きく前進しました。とはいえ、2か所の位置が確定されただけで、中井家本丸図に描かれた石垣や堀の位置が正確に復元できたわけではありません。これまでの研究を踏まえ、豊臣期の大坂城を探求する研究は今後も続けられていくことになると思われます。
その一例として、平成25年(2013)から大阪市立大学(現大阪公立大学)によるスクリューウエイト貫入試験調査(※4)をはじめとする調査があげられます。調査は現在も継続されており、完結していませんが、その成果についてはすでに色々な形で公開されています。これらの調査成果の蓄積により、地下に眠る豊臣時代の大坂城の実態がより明らかになっていくものと思われます。大阪公立大学の調査成果については下記の文献をご参照ください。
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