最近、ミライザ大阪城(旧第四師団司令部庁舎、もと大阪市立博物館)について紹介する機会があり、建築時のことを紹介した論文を読みました。建物の詳細を紹介したものに、『建築と社会』(昭和7年(1932)刊行)という雑誌があります。建物の設計者である第四師団経理部の平田範政氏が建物の紹介を行ったものです(※1)。ほとんどは建物の紹介なのですが、その前段に建築工事の内容について触れた部分があります。少し、長文ですが、紹介します。
「此の地は元来石山の通称があり、殊に雄大豪壮な築城でもあるので、地盤は相当強固なものである様に想像して居たのであるが、地質試験の結果は意外にも地下四十尺は濠の掘上げ土許りでなく、極めて粗雑不均等な土砂で埋立てられてあり、地耐力は0.6噸(トン)程度よりないものと推定されたので、(1)…」(中略)「根切施工中は黄金の太刀の一振り位は掘上げ様と云ふ慾張った意気込であったが、全く掘っても掘っても土許り花咲爺の苦笑落膽(らくたん)なき能はずと云ふ次第であった、然し石崖の裏込(※2)が四間乃至五間位はあるだろふとの豫想が見事外れて、石崖天端から奥へ約十二間の裏込が施され(2)全部石塊而も築城当時の残石であると想像される相当大きな岩石が無数に放込まれてある(3)のに一驚を喫すると共に、裏込の中から石の地蔵尊や賽銭箱大岡越前守(※3)奉献の燈籠武内式部(※4)少輔寄進の灯明台脚(4)などが転げ出して来るのは仲々興趣深いものであった。」
平田氏の文章は、以上の通りですが、このなかに大坂城の築城に関るいくつかの問題が記されています。
(1)では、深さ40尺(約12m)まで本丸の地盤が非常に軟弱で粗雑な土砂で埋められていたこと、(2)では石垣の裏込の幅が石垣天端から12間(約22m)あったと書かれています。
(3)では裏込に築城当時の残石と考えられる相当大きな石が使われていること、(4)ではその中に大岡越前奉献の燈籠や、武内式部少輔寄進の灯明台があったと書かれているのです。
このうち、(4)については写真や図面が無く、また実物も残っていませんのでその真偽の程は不明です。大岡越前(大岡忠相)寄進の燈籠が本当に出土したとなりますと、裏込の年代が築城時の遺構ではなくなってしまいます。
また、裏込に築城時の残石のような大きな石材が入るとは考えにくいので、この記述をそのまま信用してよいのかどうかは疑問もあります。
ただ、師団司令部には地下室があり大規模に掘り下げていますので、裏込と考えられるほど連続がみとめられたのかもしれません。ここでは裏込であった可能性を前提に(1)から(3)についてこれまでの調査データを参照して考えて見たいと思います。
写真1.豊臣石垣公開現場で見つかった徳川期の裏込(北から)
これまでの調査によって、現地表から7mほどの深さに豊臣期の中ノ段の地表面があることが分かっています。建設時に行われた地質調査では深さ12mまで軟弱な盛土層であったと書かれています。
報告の中では、12m以下の調査が実施されたのかどうかは分かりませんが、銀明水があるあたりは 豊臣期の井戸曲輪 となっており、中ノ段より低くなっています。地質調査がこのような場所に当たっていたのかも知れません。
(2)については、平田氏の記述が正しいとすると、裏込の幅が22mにも達することになります。
これまで本丸内で確認されている裏込の規模は、ミライザ大阪城の北側にある「豊臣石垣公開現場」の調査で見つかった、天端から約12mを測るものがもっとも規模が大きいものです(図1、写真1)。12m幅の裏込も非常に大規模なものだと考えられますが、更に10mも広い裏込があったとしますと、驚くべき規模です。
(3)に述べられているように、石だけが放り込まれているとされていることから、裏込である可能性は否定できないと思われます。正確な情報ではありませんが、大阪城の検討の際には考慮しておかなければならない情報ではないかと思われます。
図1.ミライザ大阪城の位置と推定裏込のライン
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