太閤秀吉が築いた初代大坂城の石垣を発掘・公開への取り組みと募金案内。

豊臣石垣コラム

もう一つの地下石垣

豊臣大坂城の天守の位置は、現天守閣の東にある配水池の北東隅にありました。徳川期の天守台の中心から約100m北東になります。配水池と重なるため、石垣を掘り出して確認することはできません。豊臣大坂城の天守に再び光を当てることができるのは、何十年も先のことになるかもしれません。しかし、これまで秀吉の大坂城天守の跡を追求するため、いくつかの試みが行われています。今回は、その一つを紹介したいと思います。

昭和34年の「大坂城総合学術調査」による地下石垣発見以降、大阪城天守閣や大阪市水道局などが大阪城の地下構造を確認するために、数多くのボーリング調査を行っています。ボーリングはそれぞれ目的をもって行われており、その成果は、『大阪城天守閣紀要』や『日本名城集成』小学館1985)などに詳しく紹介されています。

ところで、大阪城でこれまでに実施したボーリング調査は、文科省の科学研究費で実施したものなどを加えると、総数100本を超えています。研究の中心を担ったのは大阪城天守閣でした。天守閣が主体となって実施したボーリングによる地下石垣の確認作業は、昭和39年〜56年まで断続的に続きますが、その最後として行われたのが昭和62年度に実施された豊臣大坂城天守台石垣の確認を目指したボーリング調査でした。また、ボーリングによって石材が確認された1ヶ所を直径1.5mの範囲と限定されたものではありますが「発掘調査」を行っているのです。この発掘調査は昭和34年に行われた「大坂城総合学術調査」以来、豊臣大坂城の石垣確認を目指して行った二度目の学術調査といえるものです。

発掘した位置は配水池の北側階段の前で、中井家の本丸図と現地形との対比から、豊臣大坂城の天守台石垣の北西隅に近い位置と考えられています(図1、写真1)。調査では深さ1.65mで比較的大きな花崗岩の石材と、裏込めと考えられる栗石を確認しています(図2)。興味深いことに、調査報告には石垣を水洗いした水が下部へすぐに浸透していったこと、試掘地点に隣接するボーリング孔から激しい勢いで風が吹き上げてきたことが書かれています。石の間から風が吹き上げてくるということを読んだときは、「本当に?」というのが正直な感想でした。試掘の場所が本丸と山里丸を区切る石垣に近接していることから、あるいは地下で本丸北辺の石垣裏込めと繋がっている可能性があるのかもしれないと思ったものでした。

図1.本丸内ボーリング位置図

図1.本丸内ボーリング位置図

(中村博司1985「発掘された大坂城の地下遺構」『日本名城集成 大坂城』所収に加筆。赤い印は地下で石材が確認された場所、試掘地点が今回取り上げる調査地点。

写真1.地下石垣保存施設遠景

写真1.地下石垣保存施設遠景

階段前のネットフェンスに囲まれた場所に石垣遺構が保存されています。

図2.試掘で確認された石材実測図

図2.試掘で確認された石材実測図

渡辺武・内田九州男・北川央1989「大阪城本丸地下石垣」(豊臣時代天守台石垣)遺構、ボーリング調査並びに試掘調査概報『大阪城天守閣紀要』第17号所収。

写真2.保存された豊臣天守台石垣

写真2.保存された豊臣天守台石垣

下に覗き窓が造られています。

この昭和62年に調査された「石垣」が昭和34年の石垣と同じように、ヒューム管に保存されています。保存された範囲が直径90㎝と狭く、昭和34年の地下石垣のように有名ではありませんが、大阪城のもう一つの地下石垣といえるものです。では、この石垣は豊臣時代の天守台の石垣の一部なのでしょうか。報告書では見つかった石垣の位置から豊臣期の天守台石垣の一部だと考えられています。調査面積が狭いことと、徳川期の石垣にも近いことから断定することは難しいと思いますが、豊臣時代の天守台石垣である可能性は十分あるだろうと思います。

ところで、余談ではありますが、試掘坑に隣接するボーリング孔から風が吹き上がるという現象を昭和34年発見の地下石垣でも経験したことがあります。今年、測量を行うために石垣の清掃をおこないましたが、ここでも石の間から風が吹き上げてくることを複数の人間が体験したのです。昭和34年の竪坑は現存の石垣面からすると、一番近い所でも50mは離れていますから、石垣を通って風が吹いてくることは考えにくいことです。地下7mの石の間から風が吹き抜けてくるメカニズムは大きな謎ではありますが、現存する徳川の石垣と地下の豊臣石垣がどこかで通じていることを示しているのかもしれません。

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