本コラム2月、3月号で道修町、高麗橋で見つかった豊臣期と徳川期の魚市場について紹介しました。3月号でもふれましたが、元和8年(1622)にこの地域から魚市場が移転した後、高麗橋通りには三井越後屋や岩城桝屋などの豪商が店を構え、道修町には薬種問屋が集まるようになります。
道修町にルーツをもち現在も営業を続ける製薬会社は、武田薬品、塩野義製薬、小野薬品工業、田辺製薬などがあり、道修町は今も薬に関わる町としてよく知られています。
今回は17世紀に薬に関わる商売をしていた可能性が推定される調査事例を紹介したいと思います。
ところで、魚市場の場合は魚名木簡の出土や、魚骨の出土によって魚市場の存在が推定できました。では、薬種商の場合、何が出てくれば薬種商と言えるのでしょうか。薬の容器や薬研などの道具、薬の材料などが出てくれば想定が可能と思われますが、実際には簡単ではありません。
1992年度に行なわれた道修町1丁目の調査で、徳川期初期(17世紀前半から中頃)の屋敷地が確認されました。見つかった屋敷は道修町通りに面した5軒の屋敷で、地口は、狭いもので3間(1間は約197cm)、広いもので5間ほどあります。屋敷地は建物が何回か造り替えられていますが、17世紀前半から中頃にかけては2時期の屋敷が確認されました(図1)。
写真1.出土したウミガメの甲羅
図1.道修町1丁目の17世紀屋敷の変化
屋敷地には地面に穴を掘ってゴミを捨てるゴミ穴が多数見つかっています。5軒発見された屋敷のうち、西から2軒目の屋敷からウミガメの甲羅をカットしたもの(写真1)や、ベトナムやタイ産の陶器の破片がまとまって出土しました。
ベトナム産やタイ産の壺は両隣の屋敷から出土しないことから、この屋敷の住人の生業と密接に関係している出土品であるといえるでしょう。ウミガメの産地は特定できませんが、この屋敷の住人が東南アジアからの輸入品を扱うことを生業としていたことを示していると考えてよいと思います。
ちなみに、ウミガメの甲羅は葉書大にカットしたものがあり、カットされた状況で輸入されたのではないかと考えられます。また、ベトナムやタイの陶磁器は長胴の壺や広口の壺に限定されています(図2・3、写真2・3)。量も多いことから、焼物そのものが輸入の目的ではなく、内容物の容器として輸入され、破損するなどして使命を終えた後、捨てられたと想定されるのです。破損しなかったものは、容器として二次的に流通したと推定されます。
写真2.出土したベトナム産陶器破片
図2.出土したベトナム産陶器実測図
例えばベトナム産の長胴の壺は、茶道具として伝世された例があります。昭和初期の入札目録に「南蛮水銀壺花生」という名称の花生があり、それはまさに遺跡から出土するベトナム産の長胴の壺そのものです。
図録(根津美術館1993『南蛮・島物』)によれば、水銀の容器として輸入されたものが再利用されたと推定されています。このように、ベトナム産の壺の内容物の一つとして水銀が想定されていますが、内容物は一つの種類に限定されたものではなかったはずです。
一方、タイの四耳壺(しじこ)には内面に漆が付着したものがあり、漆の容器として使われた可能性があります。また、堺の調査では黒色火薬の材料となる硫黄が詰まって埋められた事例や、骨壺として転用された事例も知られています。
写真3.出土したベトナム産陶器
図3.出土したタイ産陶器
このように、内容物については必ずしもよく分からないのですが、17世紀前半の道修町1丁目に、東南アジアからの輸入品を扱うことを生業とした屋敷があったことは明らかです。出土したウミガメの甲羅は漢方薬の材料であると考えられることから、ベトナム産やタイ産の壺に入った内容物も薬種の材料であり、この屋敷の住人が薬種商を営んでいた可能性は十分想定が可能なのではないかと考えます。
ところで、同じ地点の調査では豊臣期の屋敷跡や18世紀以降の屋敷跡も確認されています。18世紀の屋敷地の一つからは方解石がまとまって出土する例やカモシカの角などが出土しており、これらも薬の材料であったと考えられます。しかし、豊臣期の屋敷跡からは、薬種との関わりを示すものは確認できていません。豊臣期の町屋の姿を検討する作業はこれからの作業といってもよいでしょう。
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