2月号で中央区道修町で見つかった豊臣時代の魚市場について紹介しました。豊臣時代の魚市場が発見された翌年、道修町通りを挟んだ北側、高麗橋1丁目で再び魚市場の存在を示す木簡や魚骨がたくさん出土しました。
この時の資料は14.5m×13mと非常に大きなゴミ穴から出土したもので、魚の名前を書いた木簡も3,000点を超える出土がありました。中には、道修町の木簡には見られなかった年号を書いた木製品が5点ありました。書かれた年号は元和6年(1620)が4点、辛酉元和(元和7年)が1点でした。元和6年といえば大坂城の再築が始まる年に当たります。
写真1.元和六年の紀年を書く木製品
図1.木製品実測図
ところで、2月号で紹介しましたように、元和4年までは生魚商人も塩干魚商人も道修町一帯で一緒に商いをしていましたが、元和4年に生魚商人が移転し、残った塩干魚商人も元和8年に靱町・天満町から移転したとされています。
高麗橋1丁目で出土した元和6年・7年の年号は、塩干魚商が移転した元和8年(1622)直前で、生魚商人が移転したとされる元和4年の後になります。市場の由緒書が正しいとしますと、高麗橋1丁目で発見された魚市場の跡は、塩干魚の市場の跡ということになります。
ただ、それを確定することは非常に難しい問題です。木簡に書かれた魚名や出土する魚の種類からは、生魚であったのか塩干魚であったのかを区別できないものも多いからです。おそらく、生魚商と塩干魚は明確に区別されていなかったのではないかと考えられます。では、実際の魚市場はどのようなものだったのでしょうか。
寛政10年(1798)に刊行された『摂津名所図会』第四巻に「雑喉場魚市場」の賑わいの様子が描かれています(図2)。この図を細かく見てみますと、長屋がいくつかに分けられ、その軒先に魚を載せた台があり、台の後ろにはセリを取り仕切る上半身裸の人が描かれています。
その周りをセリに参加している人が取り囲んでいます。Aの店ではセリ落とした人に鯛と思われる魚を放り投げている様子を描いています。Bの店では駕籠に入った蛸をセリにかけているようです。前の台に載っているのは鮫のように見えます。
また、この絵では道を挟んで反対側にも同じようにセリをしている店が描かれています。右側に描かれたC・Eは魚ではなく食べ物を売っている様子が描かれています。市場に集まる人のために飲食商売が行なわれるのは今も変わりがありません。
ところで、摂津名所図会にはもう1枚雑喉場を描いた絵があります(図3)。セリが行なわれている店の裏側に各地から運ばれた魚が運び込まれている様子を描いたものです。摂津名所図会が描かれた18世紀末には、荷揚げ場とセリを行なう店が一体となっていたことがわかります。
図2.『摂津名所図会』に描かれた雑喉場魚市の賑わい
図3.『摂津名所図会』に描かれた雑喉場魚市(その2)
さて、高麗橋1丁目から出土した資料の中で珍しいものを紹介します。写真2は魚商人の必需品といえる手鉤で、柄の部分には店と持主の名前と考えられる「亀屋太郎介」と「花押」が書かれています。
また、人形の頭や刀、船のミニチュアなど多数の形代(かたしろ※1)が出土しています。人形の頭は50体を超え、写実的なものから抽象的なものまで多様です(写真3)。全国の操り人形を網羅的に研究された加納克己氏によれば、高麗橋出土の人形は操るために必要な造作がなく、ほとんどが固定された人形であったと推定されています(※2)。塩干魚商人の祭礼に生人形を飾る風習があったことが知られており、出土した人形は祭礼に伴い使われたものだったのかもしれません。
写真2.手鉤
写真3.魚市場出土の人形かしら
高麗橋に魚市場の痕跡を残した商人たちも、元和8年には新靱町や新天満町へ移転し、それに伴い捨てられたものだったのでしょう。魚市場の移転後、高麗橋通りには、三越の前身となる「三井越後屋」や京・大坂・江戸で呉服店を構えた「岩城枡屋」などの豪商が店を構え、賑わいのある町となります。道修町には薬種問屋や唐物問屋が店を構え、現在に続く薬の町の原型が形成されることになるのです。
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