太閤秀吉が築いた初代大坂城の石垣を発掘・公開への取り組みと募金案内。

豊臣石垣コラム Vol.39

薬の町で発見された魚市場跡

江戸時代の大坂は豊かな食文化が育まれた町でした。その背景には海運を使って大坂に運ばれてくる諸国の物産や、近郊の農村や漁村から運ばれてくる新鮮な食材がありました。食材はそれぞれ扱う品物によって異なる市場で商いされ、市中に流通しました(※1)。例えば海魚の生魚市場は雑喉場(ざこば:現、西区京町堀、同江戸堀)、海魚の塩干魚市場は靱(うつぼ:現西区靱町、海部堀川町)、青物市場が天満などです。

それでは、豊臣時代の市場はどうだったのでしょうか。今回は、発掘調査で見つかった豊臣時代の魚市場について紹介します。

昭和61年(1986)、中央区道修町(どしょうまち)1丁目で、船場で初めてとなる発掘調査が行なわれました。調査のきっかけとなったのは、飛鳥時代の安曇寺(あずみでら:※2)推定地が道修町にあったからです。平成17年(2005)まで道修町の北側にあった三越百貨店建設の時に、地中深くから四天王寺の創建瓦と同じ文様の瓦が出土し、安曇寺推定地となっていたのです。

調査を始めると、文字を書いた「木簡」がたくさん出てきました。これは、安曇寺に当たったのではないかと一瞬思われましたが、それが間違っていることはすぐに明らかとなりました。木簡に書かれている内容が魚名ばかりで、一緒に出土するのも新しそうな陶磁器だったからです。

出土した木簡の一例を紹介しますと、写真1-(1)ではA面に「大いわし八百入」と魚名と数量が書かれています。B面には荷物を送った側と考えられる「助九郎」という人名が書かれています。この木簡にはありませんが、受け取り先と考えられる名前には「様」と書かれているものがあります。

また、(6)・(7)は記載された内容も木簡の形も瓜二つです。記載されている「むろ(アジ)百五十さし」という数量からしておそらく同じ荷物に複数の木簡が必要だったのだろうと思われます。また、「さし」という単位から干物であったことが想定されます。これらの木簡は魚を入れた箱に荷札として入れられ、道修町まで運ばれ捨てられたものと考えられました。

このような木簡が300点以上、まとまって出土したのです。また、木簡が出てきた土をフルイにかけますと、魚骨や鱗などと一緒に、鉄製の釣針が3点出土しました(写真2、※3)。これらは、魚が飲み込んで運ばれて来たのに違いありません。

写真1.道修町1丁目出土の魚名木簡と釈文

写真1.道修町1丁目出土の魚名木簡と釈文

(大阪市指定文化財)

写真2.出土した釣針

写真2.出土した釣針

(大阪市指定文化財)

図1.魚市場と考えられる遺物がまとまって出土した地点

図1.魚市場と考えられる遺物がまとまって出土した地点

図2.文化3年(1803)「増修改正摂州大阪地図」図中の「本靱町・本天満町・上魚屋町の位置

図2.文化3年(1803)「増修改正摂州大阪地図」図中の「本靱町・本天満町・上魚屋町の位置

このように、魚に関わる遺物が多数出土したことから、道修町に魚を扱う市場があったと考えられたのです。しかし、見つかった場所は江戸時代から現在に至るまで薬種問屋が多数集まる道修町でしたので、想定外の発見といえました。

想定外といいますと、荷札に混じって歴史に名を残した人物の名前が見つかりました。写真3は荷札ではなく加工した角材に書かれた墨書ですが、一面に「脇坂中書様御借此也」もう一面に「脇坂中」と書かれています。角材は下方が尖っていますが、文字が残存部にうまく納まっていますので文字が書かれたのは木材が現在の形状の状態で書かれたと思われます。

この「脇坂中書」とは賤ヶ岳七本槍の一人で、天正13年(1585)から「従五位下中務少輔」に叙任された脇坂安治(※4)のことであり、天正13年から慶長14年(1609)まで淡路洲本城主でした。

文禄・慶長役では水軍を率いて参戦しており、木片に名前が書かれたのは、海との関わりが強かった洲本城主だった時点のことではないかと考えられます。このように見てきますと、発掘地点が豊臣時代の魚市場であったことは間違いないと思われました。

写真3.脇坂中書の墨書

写真3.脇坂中書の墨書

(大阪市指定文化財)

それでは、豊臣時代の道修町に魚市場があったということは新しい発見だったのでしょうか。大坂の市場史を長年研究されてきた酒井亮介さん(大阪市中央卸売市場本場市場協会資料室)に次のようなことを教えていただきました。

生魚を扱う商人と塩干魚を扱う商人は対立していて、それぞれの由緒書を町奉行に提出しているそうです。それによりますと、本願寺の頃には海魚を扱う商人は生魚・塩干魚に関係なく天満「鳴尾町」で商売をしていましたが、秀吉の大坂城築城の際に、船場の「靱町・天満町」に移転したそうです。

大坂冬ノ陣、夏ノ陣の戦乱を経て元和4年(1618)まで生魚と塩干魚を扱う商人は同じ場所で商売をしていましたが、元和4年になって生魚を扱う商人だけが「上魚屋町」(現備後町辺り)に移転し、さらに宝永年間(1673〜81)に「上魚屋町」から「雑喉場」(現、西区京町堀、同江戸堀)に徐々に移転しました。一方、塩干魚を扱う商人は「靱町・天満町」で元和8年(1622)まで商売した後、新靱・新天満・海部堀川町に移転したと書かれているそうです(図3)。

図3.魚市場の変遷模式図

図3.魚市場の変遷模式図

「靱町・天満町」が現在の地名でどこに当たるのかといいますと、文化3年(1806)の『増修改正摂州大阪地図』には木簡が発見されたまさにその場所に「本靱(もとうつぼ)町」と書かれています。また、その後の調査で道修町と同じように魚の木簡がたくさん出土した伏見町2丁目の場所に「本天満町」と書かれているのです(図2)。「本」が付けられるのは新たに開発された町が「新靱町・新天満町」と呼ばれたからです。

したがって、道修町の魚市場の発見は想定されていたものが実物資料として確認できたということができます。そして、翌年の調査で通りを挟んで北側で発見された徳川期の魚市場の発見によって、船場の魚市場の研究は新たな展開を見ることになるのです。

※1:江戸時代から続いた各市場は昭和6年(1931)に安治川河口近くの現在の大阪市中央卸売市場に集約されます。江戸時代から現在に至る市場の変遷については酒井亮介2008『雑喉場魚市場史』成山堂書店に詳しく書かれています。

※2:日本書紀、白雉4年(653)の記事に孝徳天皇が僧旻を見舞ったという寺院。時代は下りますが京都山科区「安祥寺」の梵鐘に「摂州渡辺安曇寺洪鐘一口 嘉元4年(1306)」の銘があり、渡辺の地に安曇寺があったことを示しています。大阪市文化財地図では、現在、北区太融寺周辺が安曇寺推定地となっています。

※3:久保和士1999「近世大坂における水産物の流通と消費」『動物と人間の考古学』真陽社にフルイによって出土した資料が詳しく紹介され、考察されています。

※4:脇坂安治は洲本城主の後、伊予大洲城主となります。伏見の中書島は安治の屋敷があったため、中書島と呼ばれるようになったといわれています。脇坂家は幕末まで大名家として存続し、老中を輩出するなど幕政に深く関わっています。長く播磨・龍野藩を治めました。

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