太閤秀吉が築いた初代大坂城の石垣を発掘・公開への取り組みと募金案内。

豊臣石垣コラム Vol.32

「真田丸」から考える焼物の地域性

先月号のコラムでは大河ドラマ「真田丸」に登場する焼物と、実際に大坂城で出土する焼物について紹介しました。今回も、引き続き「真田丸」に関わる焼物の話題です。

これまでに幾度も登場し、焼物がなんともいえぬ存在感を示していると筆者が勝手に思っている場所があります。そこは囲炉裏があり、白山大権現の掛け軸を背に昌幸が座り、主に談合の場として登場します。正面の昌幸に向かって左手に焼物の壺がおかれ、そこには丸めた図面のようなものが数本無造作に差し込まれています。

本来液体や穀物などの容器である壺が割れたため、図面立てに転用しているのだろと勝手に想像しています。筆者の興味はこの壺がどこの産地の焼物なのだろうかということです。

産地のことが気にかかるのは、この時代の焼物は地域差が明確に現れるからです。先月号で取り上げた、食器は輸入品や生産地が限定されるものであることから、各地の城でもあまり明確な差はでてきません。

違いが顕著に現れるのはその土地々々で作られるカワラケ(※1)や、消費地に近い生産地の製品を使うことが多い擂鉢、貯蔵用の甕などの焼締陶器(※2)です。

ここでは地域性がどのように現れるのか擂鉢を例にとってみてみたいと思います。

調理具として必需品であった擂鉢は、この時期の遺跡から必ず出土します。擂鉢の産地は古くから陶器生産を行なっていたいわゆる「六古窯(※3)」とよばれる産地の擂鉢が流通することが一般的です。

まず、それぞれの産地の擂鉢の特徴を簡単に紹介します。図1は大坂城から出土した擂鉢の実測図です。

産地によって口の形や物を擂り潰すための擂目(すりめ)の状態がまったく違います。丹波焼(図1-①)は1本単位の擂目が特徴で、口に対して直交するように擂目が施されています。備前焼(図1-②)は、1単位8本の櫛目が向かって左上方に斜めに施されています(※4)。信楽焼(図1-③)の擂鉢は1単位5〜6本の櫛目を口に直交するように刻んでいますが、備前焼に比べると擂目の施されない部分が広くなります。

図1.大坂城から出土する秀吉時代の擂鉢

図1.大坂城から出土する秀吉時代の擂鉢

(財)大阪市文化財協会1992『難波宮址の研究』第9より抜粋転載

図2は浅井氏の居城である長浜市・小谷城下から出土している瀬戸・美濃焼の擂鉢(図2-①)と越前焼の擂鉢(図2-②)です。

瀬戸・美濃焼(※5)の擂鉢は、他の産地の擂鉢に比べて軟らかく、釉をかけた陶器製です。越前焼の擂鉢は擂目が密に施される擂鉢です。つぎに、これらの各産地の擂鉢がどのように分布しているか見てみます。

平成28年1月号で取り上げた神戸市有馬温泉の湯殿跡では丹波焼の擂鉢や壺・甕などが出土しています。丹波焼は兵庫県の三田市から篠山市にかけての地域で焼かれた焼物で、有馬とは地理的に近いことから当然のことと考えられます(図3)。

一方、大坂では備前、丹波、信楽、瀬戸・美濃などの各地の擂鉢が使われます。最も多いのは備前焼で、次いで丹波焼、信楽焼と続きます。瀬戸・美濃焼の擂鉢はごくわずかで、流通していたというより家財道具として運ばれたものかもしれません。多くの産地の擂鉢があるのは、大坂が物や人が行き交う拠点であり、大消費地であることを反映しているといえます。

次に、洛中の遺跡では信楽焼が優勢ですが、丹波焼、備前焼などもあります。織田信長の居城であった安土城は信楽焼が多いものの、越前焼や備前焼、丹波焼もあります。北近江の小谷城や秀吉の居城があった長浜城下では瀬戸・美濃焼が最も多く、越前、信楽焼がそれに次ぎます。

これに対し、信長に滅ぼされた越前、朝倉氏の一乗谷や、だいぶん東になりますが上杉氏の居城である春日山城では越前焼がほとんどを占めていて、日本海側は越前焼が優勢となります。

太平洋側を見ますと、徳川家康が江戸移封前の居城としていた駿府城では瀬戸・美濃焼がほとんどを占めています。また、秀吉の北条攻めによって焼亡した八王子城でも擂鉢は瀬戸・美濃焼がほとんどを占めています(※5)。

図2.小谷城出土の擂鉢

図2.小谷城出土の擂鉢

湖北町教育委員会1988『史跡小谷城跡』より抜粋転載

図3.秀吉期の主要な窯と城館など

図3.秀吉期の主要な窯と城館など

以上のようにみてきますと、中心となる産地がありかつ、他の焼物が混在する京・大坂から近江にかけての地域、越前焼が優勢となる日本海側の地域、瀬戸・美濃焼が優勢となる東日本の地域と大きく分けられます。このような地域性は貯蔵用の甕や壺でも認められ、秀吉時期の大坂では備前焼が、一乗谷や小谷城では越前焼が、駿府城や八王子城では常滑焼が主体となっています。

それでは、最初に述べた真田丸のシーンに登場する壺の産地は限定できるでしょうか。厳密に言えば上田城や近隣の資料を確認することができていませんので、確かなことは分かりません。まったくの想像となりますが、八王子城などと同じ流通圏に入っていた可能性があるのではないでしょうか。この想定が正しければ、昌幸の横にある壺は常滑焼なのかもしれないと勝手に想像するのです。

なお、小文作成に当たりましては、以下の報告書を参考にしました。

  • 湖北町教育委員会1988『史跡小谷城跡-浅井氏三代の城郭と城下町-』
  • 小田原市教育委員会1990『小田原城とその城下』
  • 大阪市文化財協会1992『難波宮址の研究』第9
  • 八王子郷土資料館2004『八王子城跡御主殿〜戦国大名北条氏照のくらし』
  • 滋賀県教育委員会2009『特別史跡安土城跡発掘調査報告書Ⅱ-主郭、搦手道の調査および総括』
  • 静岡市教育委員会2012『駿府城跡Ⅸ 駿府公園再整備第4区発掘調査報告書(遺物編)』

※1カワラケ:素焼きの土器皿、土師器(はじき)皿ともいう。灯明皿や酒席の杯などとしても使われます。使い捨てとされ、まとまって大量に出土することがあります。

※2焼締陶器(やきしめとうき):釉薬を使わず素地のみで焼き上げた陶器。

※3六古窯(ろくこよう):陶磁研究家の小山富士夫氏によって命名された中世から継続した陶器窯。常滑・信楽・越前・丹波・備前と瀬戸をさします。

※4:丹波焼の擂鉢は17世紀以降、1本単位の擂目から櫛目の擂目に変化します。この変化は年代の判定基準の一つにもなります。

※5瀬戸・美濃焼:瀬戸と美濃の窯は地理的に離れていますが、製品として区別することが難しく、瀬戸・美濃焼と表現しています。豊臣期に大坂などで出土する瀬戸・美濃製品は、美濃で焼かれた製品がほとんどであると考えられています。

※6:駿府城や八王子城などでは瀬戸・美濃焼に加えて、瀬戸・美濃焼の陶工が移動して焼かれた志戸呂焼が一定量含まれていると書かれています。

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