大河ドラマ「真田丸」は物語の展開も速く、視聴率も好調のようです。現在は聚楽第を舞台として話が進んでいますが、第14話「大坂」の真田丸紀行では、備前島にあった石田三成屋敷跡と大坂城の金箔瓦などが紹介されました。これから話が進んでいきますと大坂のことが何度も登場してくることでしょう。筆者もできる限り見逃さないようにしていますが、瑣末なことだと思いつつ、見ていて気になってしまうことがあります。
話の展開の中で何度か酒を飲む場面があります。そこで器としてよく登場する碗は外側が茶色で内側が白い比較的大きな茶碗です。仮にこれを褐釉磁器(かつゆうじき)と呼ぶこととしますと、褐釉磁器はこれまでにも10回近く登場し、それも色々な場面で登場しています。
例えば第2話のなかで家康が薬を飲む場面、大坂城の中で加藤清正と福島正則が酒を飲む場面、真田の郷で真田親子が3人で酒を飲んでいる場面などです。記憶が正しければ、軍師官兵衛でも同じ器が使われていたのを見たように思います。戦国時代の茶碗として使われていることは分かるのですが、さすがにこれだけ頻繁に同じものが登場すると気になってしまうのです。
では、それ以外の酒の場面ではどのような器が使われているのでしょう。見落としはあると思いますが、褐釉磁器が使われる場合、白磁の皿が使われる場合、漆杯が使われる場合の3パターンがあるようです。最も格式が高い場では、漆の杯が登場します。その次が白磁の皿、日常的な場で使われているのが褐釉磁器です。
次にお茶席での茶碗はどうでしょうか。私が見た中で、千利休が茶を点てるシーンが3度ありました。相手は上杉景勝、真田信繁、秀吉です。上杉景勝と真田信繁の時の茶碗は同じものが使われていました。外面に縦方向の筋が何本も入った青磁の碗、秀吉の時は高麗茶碗のようでした。あるいは伝世の器を使っているのかもしれませんが、場面ごとに使われる焼物にも配慮があることがわかります。
写真1.瑠璃釉碗(中国)
写真2.織部向付(美濃)
写真3.織部茶碗(美濃)
写真4.志野茶碗(美濃)
写真5.左:志野筒向付(美濃)、右:唐津筒向付(肥前)
さて、これまではドラマの中での話しですが、実際に秀吉が大坂城や聚楽第を築いた頃に使っていた焼物はどのようなものだったのでしょうか。
皆様の中には漠然と、中国・朝鮮の焼物や樂焼・美濃焼・唐津焼など、いわゆる桃山陶磁と呼ばれる焼物が秀吉の時代から使われていると思われていないでしょうか。
そこで、大坂城の調査例を参考に少し考えてみたいと思います。
秀吉が大坂城を築き始めたのは天正11年(1583)からで、秀吉が死ぬのは慶長3年(1598)です。大坂では慶長3年と考えられる地層(※2)より新しい地層からしか出てこない焼物があります。まず上げられるのは、美濃で焼かれた織部焼です。緑が鮮やかで内型を用いて作られた向付(写真2)や、大きく歪みをもつ茶碗(写真3)などが特徴です。織部焼は秀吉が死んでから出現した焼物と考えられます。
写真6.軟質施釉陶器茶碗(京ヵ)
次に、秀吉が見ていなかった可能性があるのは美濃の志野焼(写真4)です。志野も慶長3年以前の地層からほとんど出土することがありません。志野の中には伝世され重要文化財となっている茶碗など茶器がいくつもあります。これらの器も秀吉は見ていなかったのではないかと思っています。しかし、これには異論も多いかと思います。
一方、秀吉が手にしていたと考えられるものには樂焼と共通する特徴をもつ軟式施釉陶器(なんしつせゆうとうき※3)(写真6)、美濃産の天目茶碗や丸碗、肥前で焼かれた唐津焼(写真5右)などがあります。
唐津焼には天正20年(文禄元年:1592)の紀年銘が刻まれた壺が残っていますので、天正年間(1570〜1592)には焼き始められていました。ところが、大坂城では唐津焼は慶長3年以前の地層から少し出土はするのですが、出土例は非常に少ないのです。
このことから秀吉は唐津焼を知っていたとしても、焼き始められた初期の製品である可能性が高いと思うのです。秀吉が大坂城にいた頃の陶磁器は、華やかな桃山陶器のイメージとは違って、歪みもなく色合いも単色の意外と地味な焼物が多かったと考えられるのです。
ドラマの中では焼物に焦点が当てられる場面は多くはありませんが、登場する焼物に注目してみると、違った見方ができるかもしれません。
写真7.備前徳利(備前)
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