皆様の中には年末年始の休みを利用して温泉を訪れた温泉好きの方もいらっしゃるのではないでしょうか。豊臣秀吉も大の温泉好きだったそうです。とりわけ日本書紀にも登場する名湯、有馬温泉との縁は深く、中国攻め途中の天正7年(1579)には有馬温泉一帯を領地としていることがわかっています。秀吉本人やその縁者も何度も有馬に湯治に訪れ、災害で寂れていた有馬の復興に力を注いでいます。このことから温泉寺(※1)を建立した奈良時代の僧行基、有馬十二坊と称される浴舎を建て、温泉を再興した平安時代末から鎌倉時代の僧、仁西上人(※2)と共に「有馬の三恩人」と言われています。有馬にある入浴施設がリニューアルに際して“太閤”を冠した名称に変更して、来客数が大幅にアップしたように、太閤秀吉の霊験は今もあらたかといえるでしょう。
さて、当初秀吉は有馬を訪れる際には現在の天神源泉近くにあった「阿弥陀堂」を利用していましたが、文禄3年(1594)に自身のための湯治施設として「湯山(ゆのやま)御殿」(※3)を建設しました。御殿を建設するにあたって、65軒の家屋を強制撤去していますので、規模の大きなものであったようです。この御殿は420年前に起こった慶長元年(1596)の伏見大地震によって倒壊し、慶長3年(1598)に再建されています。湯山御殿の位置は愛宕山の山腹にある現在の極楽寺あたりと考えられていて、極楽寺の庫裏(くり)の床下には「湯殿あと」と伝えられる遺構が保存されていました。
写真1.湯山遺跡で発見された岩風呂
ところが、平成7年(1995)の阪神・淡路大震災によって極楽寺の庫裏が倒壊し、その建替え工事に伴う調査を神戸市教育委員会が実施したところ、残されている「湯殿あと」の下から秀吉が建設したと考えられる湯殿跡が見つかったのです(写真1)。
発見された遺構については神戸市埋蔵文化財センターのホームページを始め、多くの方がネット上で紹介されているほか、カラー写真がふんだんに掲載された調査報告書『ゆの山御てん 有馬温泉・湯山遺跡発掘調査の記録』も公開されています。また発掘調査後、湯山御殿跡は『太閤の湯殿館』として現地に遺構を保存し公開されており、観光客で賑わう温泉街のなかで静かに有馬温泉の歴史を体感できる観光スポットとなっています。
さて、有馬温泉の歴史や湯山御殿の展示施設については是非有馬を訪れ体感していただくこととして、今回紹介するのは有馬の湯山御殿の調査と大坂の関わりについてです。
すでに平成27年4月のコラムで、有馬の湯山御殿の瓦と大坂城から出土した軒丸瓦が同じ笵で作られたもの(写真3)であることを紹介しています。瓦が製品として運ばれたのか、職人が移動して瓦を焼いたのかはわかりませんが、大坂と有馬温泉の湯殿跡から同じ笵型で作られた瓦が出土しているのです(黒田慶一2002「同笵瓦 達磨窯の発掘調査から」『葦火』100号、大阪市文化財協会)。
注目されるのは、大坂で出土した場所が瓦を焼いた窯跡が見つかった地点である点です。大坂城の城郭や周辺の武家屋敷を建設するに当たって使われた瓦は、膨大な数にのぼります。これを調達するために最も効率がよいのは供給場所の近くに窯を構築し生産することですので、城と城下町の建設に当たっては大坂城の周辺で瓦が焼かれたのだろうと考えられていました。
図1.豊臣期大坂城と達磨窯の位置(●印)
そして、平成14年(2002)に行われた中央区和泉町1丁目の発掘調査で、豊臣大坂城の瓦を焼いたと考えられる窯が見つかったのです(図1)(小倉徹也・宮本佐知子・田中清美2000「大阪市内で初めて発見!! 達磨窯」『葦火』100号、大阪市文化財協会)。
窯は達磨窯(だるまがま)と呼ばれる平面が繭形(まゆがた)で2方向に焚口がある形態のものでした。達磨窯という名称の由来は横から見ると達磨が座った姿を彷彿させるためといわれています。ここでは9基の窯が部分的に重なって築かれており、同じ場所で窯を造り替えながら操業していたことが分かるのです(写真2)。
瓦は窯の中から出てきたものではありませんので、ここで焼いた瓦とは断定できませんが、その可能性は大きいといえるでしょう。調査を担当した大阪文化財研究所の小倉徹也さんらは9基の窯のうち最も古い一群は天正11年(1583)の秀吉による大坂城築城まで遡り、豊臣時代を通してこの地で瓦が焼かれたのではないかと考えています。
また、調査では文字を刻んだ瓦の破片も出土しています。全体は不明ですが、瓦職人と考えられる人名が書かれています(写真4)。四天王寺に付属する瓦工人集団の棟梁に「藤原家次」がおり、その実名が「藤兵衛」だと言われています。出土した瓦に書かれた藤兵衛も四天王寺の瓦工人で、この窯を築いた工人集団が四天王寺と関係が深かったことが想定されているのです(※4)。湯山御殿では四天王寺のために焼かれた瓦と同笵の瓦も出土しており、湯山御殿の報告書では湯山御殿を構成する建物の一部が大坂から移築された可能性、また、瓦に見られる大坂との密接な関係から湯殿が、豊臣家によって造営されたことの傍証にもなるだろうと書かれています。
写真2.発掘された窯跡の調査地全景
写真3.大坂城(左)と湯山御殿(右)出土の同笵瓦
ところで、湯山御殿は完成後まもない慶長元年(1595)の伏見大地震によって倒壊し、慶長3年に再築されます。御殿跡発見へとつながる調査の契機となったのが400年後の平成7年(1995)の阪神・淡路大震災であったことは、因縁めいたものを感じます。発掘調査報告書に「有馬湯山につくられた湯山御殿のあとが、その主である太閤秀吉の400回忌の年にふたたび世にあらわれたのも他生の縁と申せましょう。」と書かれるように、単なる偶然でない歴史の不思議を感じずにはおれません。
湯山御殿は徳川氏の時代になって徳川家とかかわりの深い極楽寺・念仏寺の敷地になります。豊臣大坂城が徳川氏による再築工事で一新されたように、有馬の湯山御殿も同じ運命をたどったのです。
写真4.出土した文字瓦
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