本年1月のコラムで、神戸市有馬温泉の湯山御殿から出土した瓦と大坂城や四天王寺の瓦に同じ笵型で作られたものがあることを紹介しました。
今回は、これらの瓦を焼いたのではないかと考えられる瓦窯について、調査を担当した(公財)大阪市博物館協会、大阪文化財研究所の小倉徹也さんに紹介していただきます。
平成14年(2002)4月末から7月初めにかけて行った大坂城跡の発掘調査で、大阪市内で初めてとなる豊臣期の瓦窯が見つかりました。
窯が発見された場所は現在の大阪市中央区和泉町にあり、豊臣期大坂城の三ノ丸の外側で、惣構堀の内側に当たります(図1)。
図1.調査地位置図
地形的には上町台地の西斜面に位置し、南および北側がやや高く、西側に緩やかに傾斜しています。
台地を開削する谷地形の中にあり、地下水の集まるところで、常識的には焼物の窯の立地に適さないのではないかと考えてしまいますが、瓦を燻すためには湿気(水分)が必要で地下水の豊富なこの場所は、燻瓦(いぶしがわら)の生産に適したところだったようです。
見つかった瓦窯は平面形が瓢箪形や小判形をした楕円形となるのが特徴で、達磨窯(※1)と呼ばれる形態の窯でした。
達磨窯は全部で9基確認しました。すべて、中央に焼成室をおき、両側に燃焼室、両端に焚口があります。
写真1.調査地全景(黄色の地層は徳川期の盛土)
地層をていねいに観察していくと、窯は数基ずつ重なって築かれていることがわかってきました。南側で見つかったグループの中で最も古い8号窯の上には5号窯の一部が重なり、その上に1号窯が重なっていました。北側のグループでは、古い順から4号窯→9号窯→2・3号窯の順番に構築されていました。このグループも南と同様に窯の一部が重なりながら築かれていました。このように、狭い範囲に窯を築き直しながら瓦を焼き続けていることが分かったのです。
図2.達磨窯の配置と窯細部の写真
写真2.「天」の刻印のある塼
写真3.木製桐文瓦笵
達磨窯からは、窯壁の破片と一緒に大型・小型の瓦の破片が出土しました。また、窯の周辺に広がる灰原(※2)や窯が使われなくなった後に埋まった地層から、中国製の染付碗と美濃で焼かれた天目茶碗が見つかりました。
これらの陶磁器は豊臣時代の前半に出土するものでした。出土した瓦の中には、平成27年4月のコラムで紹介した大名屋敷や本丸から出土している瓦と同笵・同文の瓦や、文字の書かれた鬼瓦とみられる破片がありました。
また、「天」の陽刻がある三角形の敷塼(建物の床に敷き詰める厚みのある板状の瓦、写真2)や桐文が彫られた方形の木製瓦笵(写真3)も見つかりました。
瓦笵は下端がやや失われていましたが、ほぼ完形です。縦11.6cm、横16.0cm、厚さ2.7cmで、ヒノキ科の樹木の柾目材が使用されていました。棟の飾り瓦を作るための笵と考えられます。中央に6個、左右に3個ずつの花を持つ珍しいものです。
花と葉の輪郭は深く彫りこまれ、葉脈と茎は細く浅く表現されています。表面は木が痩せて木目がはっきりと見られます。
この笵から作られた瓦はいまだ発見されていませんが、いつか、大坂城やその他の城郭などから発見されるかもしれません。
文字の書かれた瓦は1月号で紹介したとおり、四天王寺の瓦工集団あるいは「寺島家」(※3)との関わりが想定され、その配下にある瓦工人がこの地で瓦を焼いていた可能性を示すものです。
また、今回見つかった窯の検討から、達磨窯の構造上の多くの知見が得られました。
特に、燃焼室の畦(図2)が3条から4条へ変化すること、平面形が瓢箪形から小判形へ変化すること、これまで明確ではなかった通焔溝の峠の形状が明らかとなったことなどがあげられます(図4)。
しかし、その反面、瓦窯の上部構造が失われていたため、焚口付近の窯壁構造や、燃焼室・焼成室の境界(障壁)の構造など、瓦窯本体の詳細な点については不明です。
また、本調査で出土した瓦の中には、本丸から出土した瓦と同じものがあり、見つかった窯のうち初期の瓦窯は、豊臣期大坂城築城時に遡る可能性があります。
大阪府庁建替えに伴う調査でも豊臣時代初期の鋳物職人の工房跡や住居が確認されており、城の中心近くで城造りに必要な製品の生産が行なわれていたのです。これまで、城域と生産の場とは区別されるもの、異なる場所で行われるものと、漠然とイメージしていました。ところが、現在の町にも共通しますが、生産の場が予想以上に身近にあったことが今回の調査から分かりました。
『今戸瓦焼図』につきましては神戸市立博物館より画像の提供および掲載許可をいただき、「達磨窯の構造断面図」につきましては吹田市立博物館より掲載許可をいただきました。記して感謝いたします。
図3.今戸瓦焼図 亜欧堂田善画
図4.達磨窯の構造断面図
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