太閤秀吉が築いた初代大坂城の石垣を発掘・公開への取り組みと募金案内。

豊臣石垣コラム Vol.17

大阪市指定文化財となった瓦と上町の大名屋敷

本コラムで昨年5月に紹介した豊臣大坂城詰ノ丸出土の陶磁器と金箔瓦が平成26年度の大阪市有形文化財に指定されました。

http://www.city.osaka.lg.jp/hodoshiryo/kyoiku/0000301044.html

指定を受けたのは昭和59年から60年にかけて行われた豊臣大坂城本丸内詰ノ丸の発掘調査で出土した陶磁器や瓦など89点です。これらは、豊臣期大坂城本丸内で使われたことが確実な資料であり、本丸内の建物やそこに住んだ人たちの様子を知ることができる貴重な資料として指定されました。そこで、今回は新たに指定された詰ノ丸出土瓦の一部を紹介すると共に、出土地点は異なりますが、同時に指定を受けた沢瀉文(おもだかもん)金箔瓦にまつわる話を紹介します。

写真1.指定された豊臣大坂城詰ノ丸出土の軒丸瓦・軒平瓦

写真1.指定された豊臣大坂城詰ノ丸出土の軒丸瓦・軒平瓦

今回指定を受けた軒瓦(写真1)には色々な文様の瓦が含まれています。軒丸瓦は巴文(※1)の瓦がほとんどですが、軒平瓦は中心に花や宝珠の文様をいれ、それを挟んで左右対称に唐草文が入るものが基本です。これらの瓦は本丸にあった御殿や、櫓などに使われたものだと考えられます。

ところで、建物の軒先を飾る軒瓦は木製の笵木に文様を彫り、そこに粘土を詰めて文様をつくります。1つの笵木を使って、多数の軒瓦が作られたのです。同じ笵から作られたものを「同笵」(※2)といいますが、同笵の瓦が地域を越えて見つかることも珍しくありません。

たとえば、大坂城の瓦と神戸市有馬温泉の秀吉の「湯山御殿」跡や、「姫路城」などから出土した瓦が同笵であることが明らかになっています(黒田慶一2002「達磨窯の発掘調査より 同笵瓦」大阪市文化財情報誌『葦火』第17巻4号)。同じように、大坂城の中でも同笵瓦が離れた場所から出土することは珍しくありません。

今回指定を受けた詰ノ丸出土瓦の同笵瓦が特に多数出土した地点として、大阪歴史博物館・NHK大阪放送局の敷地(以下歴史博物館敷地と記す)があります(図3・写真4)。図1-1・2が本丸詰ノ丸から出土したもの、図1-3・4が歴史博物館敷地の調査で出土したものです。1と3、2と4が同笵と考えられる瓦です。詰ノ丸と歴史博物館敷地からはこの2種類の瓦以外にも同笵と考えられる瓦が何種類も確認されています。

それでは、本丸と同笵の瓦を葺いた建物があった歴史博物館の敷地には何があったのでしょうか。それを考える材料となる瓦が今回同時に指定を受けた「金箔押沢瀉文方形飾瓦」(写真3)です。

図1.豊臣大坂城本丸詰ノ丸と大阪歴史博物館敷地出土の瓦

図1.豊臣大坂城本丸詰ノ丸と大阪歴史博物館敷地出土の瓦

詰ノ丸出土の1は中心飾りを囲む輪郭が明瞭で、歴史博物館敷地出土の3ではほとんど輪郭の突起が失われています。同じ笵を使って1が先に作られ、3が後に作られたと考えられます。

写真2.大阪歴史博物館敷地出土の金箔瓦

写真2.大阪歴史博物館敷地出土の金箔瓦

(詰ノ丸出土図1-1と同笵)

写真3.大阪歴史博物館敷地から出土した金箔押沢瀉文方形飾瓦

写真3.大阪歴史博物館敷地から出土した金箔押沢瀉文方形飾瓦

(1辺約27cm、平成26年度指定文化財)

図2.大阪歴史博物館敷地から出土した金箔押沢瀉文鬼瓦

図2.大阪歴史博物館敷地から出土した金箔押沢瀉文鬼瓦

図3.豊臣期本丸詰ノ丸調査地点と大阪歴史博物館・NHK大阪放送局敷地の位置

図3.豊臣期本丸詰ノ丸調査地点と大阪歴史博物館・NHK大阪放送局敷地の位置

水色が堀跡、赤破線は堀に伴う塀跡。沢瀉文の瓦は塀の東側の屋敷地から出土しています。

写真4.旧大阪市立中央体育館敷地(現大阪歴史博物館・NHK大阪放送局敷地)で見つかった堀と塀(1988年撮影)

写真4.旧大阪市立中央体育館敷地(現大阪歴史博物館・NHK大阪放送局敷地)で見つかった堀と塀(1988年撮影)

堀と塀によって区画された3つの敷地が見つかりました。沢瀉文金箔瓦は南北塀と上町筋に挟まれた約8,700坪の広さを持つ屋敷跡から出土しています。(図3参照)

文様となっている沢瀉文(※3)は家紋としてよく使われるもので、有名な大名では福島正則や毛利元就が家紋として用い、豊臣秀次が馬印(※4)として使っています。沢瀉を文様とする瓦は指定されたもの以外にも円形飾瓦や鬼瓦(図2)など17点が出土していて、大阪歴史博物館の敷地と沢瀉文との強い関係が認められるのです。

そして、ここから出土したものとは意匠が異なるものの、豊臣秀次の居城であった八幡山城から沢瀉文の鬼瓦が出土しており、中村博司さんによって歴史博物館の敷地が豊臣秀次の屋敷跡ではないかと推論されています(中村博司1989「大坂城と城下町の終焉」『よみがえる中世』2本願寺から天下一へ 大坂、平凡社)。関白秀次が失脚した文禄4年(1595)には居城であった京の聚楽第(※5)が破却されています。もし、秀次の屋敷であれば、当然大坂の屋敷も破却されているのではないかと推測されますが、秀次の大坂屋敷が破却されたという記事は文献史料では確認できないようです。しかし、『言経卿記』(※6)の記事によりますと、天正14年末頃までに秀次が大坂に屋敷を構えていたことは確かなようです。

出土した沢瀉文金箔瓦の多くが豊臣期の前半に埋められていることは、年号を記した資料が一緒に出土していることから確認されます。また、屋敷境に掘られていた堀も大坂夏ノ陣以前に埋められており、文禄4年に大規模な造り替えがあったとしても矛盾はないといえます。今のところそれ以上の推測は難しいのですが、大手口のすぐ南西に接し、上町筋と本町通りが交差する地点を占めることなどから、豊臣家に近い大名の屋敷であったことは間違いないでしょう。

写真5.大阪歴史博物館敷地で見つかった豊臣期屋敷境の堀の埋土

写真5.大阪歴史博物館敷地で見つかった豊臣期屋敷境の堀の埋土

(幅3.6m、深さ約3m、東から)

沢瀉文金箔瓦にかかわるエピソードの一つとして頭の片隅に置いていただければと思います。

なお、大阪城天守閣では3月21日から5月10日まで、『大坂の陣400年記念特別展 豊臣と徳川』が開催されています。多彩な関連資料によって大坂の陣の意義をさぐる展示となっています。

また、4月18日から6月8日まで大阪歴史博物館において開催される『大坂の陣400年 特別展 大坂 -考古学が語る近世都市-』では今回紹介した沢瀉文の金箔瓦をはじめ、近世大坂を象徴する代表的な出土品が一堂に集められ展示されます。特別展期間中の金曜日は夜8時まで開館しており、じっくり見学していただくこともライトアップされた天守閣を一望することもできます。ぜひ、この機会に大阪に、大阪城にお越しください。

※1.巴文(ともえもん):水を表す文様で、火災除けとして平安時代以降、軒丸瓦の文様としてよく使われた。

※2.同笵瓦(どうはんがわら):1枚の笵木から作られた瓦、笵の傷などによって、同じ笵から作られたものであることがわかる。

※3.沢瀉文(おもだかもん):沢瀉は池や沢、田んぼなどに自生するクワイに似た水草で、矢尻形の葉をつける。別名「勝ち草」とも呼ばれ、武人の家紋として普及した。

※4.馬印(うまじるし):戦場において大将が己の所在を明示するため馬側や本陣で長柄の先に付けた印。

※5.聚楽第(じゅらくだい、―てい):天正14年(1586)着工、翌天正15年に完成した関白秀吉の政庁・邸宅。天正19年に関白職を甥の豊臣秀次に譲った後、秀次の邸宅となる。文禄4年(1595)の秀次失脚に伴い破却された。

※6.言経卿記(ときつねきょうき):戦国から江戸時代初期の公卿、山科言経によって天正4年(1576)から慶長13年(1608)まで30年以上書かれた日記。天正13年9月から慶長3年(1598)頃まで中島(天満)に住んでいた。

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