太閤秀吉が築いた初代大坂城の石垣を発掘・公開への取り組みと募金案内。

豊臣石垣コラム

南外堀々底に眠る石列

前回まで3回にわたって豊臣時代の京橋口大手口玉造口の防御施設について紹介しました。大阪府警本部や音楽堂などで見つかった堀が、「馬出し曲輪」の堀となる可能性が高いことを紹介しました。

今回は昭和46年(1971)から47年にかけて発掘調査された南外堀の堀底に眠る石列を紹介します。この石列については調査を行った大阪城天守閣から既に報告書が刊行されています(※1)。発掘された場所は二の丸南東隅にある二番櫓跡の下に当たります(図1)。報告書では見つかった遺構は徳川期の二の丸石垣に伴う遺構であろうと報告され、豊臣期の遺構であることは否定されています。ところが、平成20年(2008)に刊行された中村博司さんの『天下統一の城 大坂城』(新泉社刊)のなかで、見つかった遺構のうち最も外側で見つかった石列については豊臣期の遺構ではないかという説が発表されています。

この石列が発掘調査される経緯を調べてみますと、昭和30年代から外堀の水が涸れ始め、堀底から石列が現れていたようです。ところが、昭和47年に堀に水が注入されることとなり、水没してしまう前に大阪城天守閣が総合学術調査の一環として調査を実施したものです。

南外堀々底の石列の存在は大阪城の刻印調査を継続的に実施されていた方々や、大阪城に興味を持っていた多くの方々に知られていたようです。そのお一人に、昭和30年代から大阪城に興味を持ち、今も研究を続けられている志村清さんがおられます。志村さんは調査前の石列の図面を独自に作成されるなど、石列発見当初から調査途中の多くの写真を撮影しています。志村さんは当初から石列が豊臣時代のものではないかと考えていたということですが、外に向けて発表されたことはないようです。今回は報告書の記載に志村さんからお聞きしたことを加味しながら、南外堀々底の石列を紹介したいと思います。

図1.南外堀々底の調査位置図(黄色は調査範囲)

図1.南外堀々底の調査位置図(黄色は調査範囲)

図2.南外堀々底の調査平面図

図2.南外堀々底の調査平面図

大阪城天守閣1973「大阪城南外濠々底遺構発掘調査概報」に加筆
A〜H:調査地点名称、1〜19:墨書のある石材、着色した石材:矢穴のある石材

発掘調査ではすでに露出していた「石列」と地中に埋まっていた連続する石列を延長68mにわたって明らかにしています(図2-A・B)。南北の石列と東西の石列は約103゜の鈍角で交わりますが、角部は丸みを持って石が配置されています。石材はいずれも自然面を残す花崗岩で、南と東側に面を揃えるように並べられています。上端はほぼ平らですが1段だけで終わっています。発掘された石材62個中16個(図2で番号が振られた石、石列以外を含むと19個)の石に墨書が確認されています。一つの石に複数の墨書があるものもあります。報告書に記載はありませんが、志村さんの記録によれば「矢穴」(※2、写真4)を残す石材が6個認められているようです。

石列の調査に続き、石列と現(徳川期)二の丸石垣との関係を明らかにするために、石列に直交する2本の調査坑(図2-C・D、写真2)を設定し、調査が行われています。この調査で栗石を敷き詰めた石敷きや角材(報告書では胴木と記載)(※3)が発見され、その広がりを確認するための調査(図2-E・F、写真3)が行われています。また、現在の石垣の根石を確認するために石垣コーナー部分と南北の石垣に沿った2か所(図2-G・H)が調査されています。

以上の調査結果をまとめますと、一番外側で発見される石列は砂層の上に築かれていますが、現存の二の丸石垣端から約9mのところから砂層を掘り込んで、粘土層が見られます(図2)。この粘土層中に二の丸石垣の根石の根固めと考えられる石を詰めた遺構があることが報告されています。

報告書では石列と粘土層の中に見られる根固めの遺構で新古の関係があることに触れていますが、遺構が築かれた時期は石列も含めすべてが徳川期の大坂城二の丸石垣の築造に関わる遺構とされています。中村さんは、報告書に書かれている地層の前後関係から石列を豊臣期、それ以外の遺構を徳川期だと考えられたわけです。

豊臣期と考える根拠として地層の重なりだけでなく、石列の中に認められる墨書の存在と、徳川期の石垣再築工事の分担を示す絵図から豊臣期と徳川期の南外堀の位置が近い位置にあることが想定されることから、南外堀々底の石列が豊臣期のものと想定されたのです。石垣に見られる墨書については徳川期の石材にはほとんど墨書の符号は認められておらず、豊臣期の石垣には墨書が認められることが多くあります。たとえば、追手門学院小学校で発掘された豊臣石垣の石材やピース大阪で見つかった豊臣期の石垣、音楽堂で発見された石垣にも墨書がありました(写真5)。

写真1.発掘前の石列の露出状況(志村清氏提供)

写真1.発掘前の石列の露出状況

写真2.調査地全景(志村清氏提供に加筆)

写真2.調査地全景(志村清氏提供に加筆)

E・F地区拡張前の状況、C・D地区の白く見える部分が砂層、手前の黒っぽい部分が粘土層

写真3.調査地全景(志村清氏提供に加筆)

写真3.調査地全景(志村清氏提供に加筆)

写真4.矢穴の見られる石材(志村清氏提供)

写真4.矢穴の見られる石材

写真5.豊臣石垣の墨書

写真5.豊臣石垣の墨書

ところが、南外堀の発掘調査では地中に埋まっていた徳川期の二の丸石垣(図2-石番号17)にも〈中、二月廿日(?)〉の墨書が認められたと書かれています。また、徳川期の石垣に伴った遺構の中にも墨書が含まれています(図2-石番号1・11)。このことから、墨書があることが豊臣期に限定できるものではないことがわかります。ただ、豊臣期の石材に墨書が認められる例が多いという事実と、石垣に描かれた符号や文字に共通するものもあることから、南外堀々底で見つかった石列が豊臣時代までさかのぼる可能性は高いと言えるのではないでしょうか。石列が再び水没した今となっては、再発掘して確認することは叶いませんが、大阪城に残る豊臣大坂城の痕跡の一つとして、今後検討していくべき遺構といえるでしょう。

※1.大阪城天守閣1973、『大阪城南外濠々底遺構発掘調査概報』
岡本良一編1982『大坂城の諸研究』日本城郭史研究叢書 第8巻、名著出版 にも報告書が収録されている。発掘された遺構や墨書についての詳細は報告書を参照してください。現石垣の根石の状況を確認するなど、堀底を調査した唯一の事例です。

※2.矢穴(やあな):石垣の石を切り出す際や石材を分割する際に鉄のタガネを打ち込むために抉られた穴

※3.胴木(どうぎ):石垣の根石の不等沈下をふせぐために根石の下に敷かれた材木

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