前回のコラムでは京橋口で見つかった三の丸の石垣遺構を紹介しました。今回は、大手前で見つかった堀を紹介します。前回のコラムでも紹介したように、豊臣氏の大坂城は本丸、二の丸、三の丸、惣構の四重構造であると考えられていました。三の丸の範囲にはいくつかの説がありましたが、最も有力だったのは伊達家に残る『僊台武鑑』(※1)に収められた「大坂冬の陣配陣図」(図1)を基に復元された案で、西が谷町筋辺り、南が現在の外堀と長堀通りの間、東が玉造筋辺りに想定されていました(図2)。この想定は、現在の地形を勘案した復元で、多くの賛同を得ている復元案でした。
ところが、平成15年(2003)に(公財)大阪府文化財センターが調査した大阪府警本部の調査によって、想定とは異なる位置から大規模な堀が発見されました(写真1‐堀83)。見つかった堀の規模は幅約25m、深さ約6mあり、堀の傾斜は約40度以上ありました。この堀は、すでに平成2・3年度(1990・91)に行われていた北側の調査でも連続(写真1‐堀1・堀2)が確認されており、大手口を逆コの字形に取り囲んだ堀であることが明らかになったのです。
図1.『僊台武鑑』所収「大坂冬の陣配陣図」に描かれた「三の丸」堀
この堀の発見により、これまで谷町筋まで広く想定されていた三の丸の範囲が大手口を囲む規模であり、その外側は惣構堀まで明確な区画がなかったことが想定されるようになりました。大手前で見つかった堀の内側が三の丸だとすれば、これまで三の丸だと考えられてきた範囲は、想定よりもだいぶん小規模なものとなります。前回のコラムで紹介した地図は、この大手口を囲む堀に囲まれた区画を「馬出曲輪」(※2)とし、その外側の惣構堀までの広大な範囲が三の丸であるとする復元図だったわけです。
それでは、これまで三の丸と考えられていた地域とその外側では、何の区別もなかったのでしょうか。これまでの調査では上町筋と谷町筋に挟まれた地域(府庁新別館、NHK大阪放送局・大阪歴史博物館などの敷地)では、規模の大きな大名屋敷、あるいは武家屋敷と考えられる屋敷跡が見つかっています。城に近いこの地域は大坂城の防衛上も重要な位置を占め、有力な大名が屋敷を構えていたことは間違いありません。これまで三の丸と考えられていた地域と、さらにその外側の地域がどのように使われていたのかについてはこれからも検討が必要だろうと考えます。
ところで、この堀の発掘では色々なことが明らかとなっています。たとえば、堀底を凸凹に掘った「堀障子(ほりしょうじ)」が見つかっています。堀障子は後北条氏の小田原城例が有名ですが、大坂城で堀障子が発見されたことは驚きでした。また、堀は一気に埋め戻されていて冬の陣の後、夏の陣までに埋め戻しが行われたと考えられています(写真2)。この堀を埋める途中で人を葬った墓が何体も発見されています。埋葬された人骨以外にも刀傷をおった人骨なども多数出土しており、大坂冬の陣から夏の陣にかけての豊臣方、徳川方の慌ただしい動きが遺構や遺物を通して感じられる調査であったと言えるでしょう。
図2.『僊台武鑑』を基に復元された大坂の町
大阪府警本部の南側歩道には、発掘調査の様子と出土遺物などを紹介した陶板の解説板があります(写真3)。また、現場のすぐ南にある大阪歴史博物館からは、現場と大坂城の関係が一望できます。是非、一度見学してみてはいかがでしょうか。
写真1. 大阪府警本部の敷地で発見された堀(水色の部分)
写真2. 発掘された堀の断面
写真3. 大阪府警本部南の解説板
※今回の報告に当たりましては、(公財)大阪府文化財センターから画像の転載許可等のご高配をいただきました。また、中村博司氏からは懇切なご教示をいただきました。
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