太閤秀吉が築いた初代大坂城の石垣を発掘・公開への取り組みと募金案内。

豊臣石垣コラム Vol.12

大阪城北辺に保存された豊臣時代の石垣

豊臣期大坂城は本丸・二の丸・三の丸・惣構の四重構造であったと言われています。本丸・二の丸の範囲については、現存する徳川期大坂城の範囲とほとんど同じだと考えられています。また、城のもっとも外側を防御する惣構堀については北が大川、西が東横堀川、南が空堀通り付近、東がJR環状線あたりと考えられています。(図1)。

ところが、二の丸と惣構の間にある三の丸の範囲については色々な説があり、必ずしも決着をみているとはいえません。三の丸にかかわる諸説については、改めて紹介したいと思いますが、ここでは、これまで三の丸の遺構と考えられてきた京橋口周辺の豊臣時代の石垣について紹介します。

大坂城跡では1000件を超える発掘調査が行われています。そのなかで、徳川期大坂城でも城内への出入口となった京橋口、大手口、玉造口周辺で豊臣時代にさかのぼる防御施設が見つかっています。京橋口周辺で遺構が初めて発見されたのは、昭和59年に行われた追手門学院小学校の校舎建て替えに伴う調査です。その後、平成1・2年に実施されたドーンセンターの調査などで延長150mに及ぶ東西方向の石垣であることが明らかとなりました。発見された石垣は、築かれた年代が出土した木簡から慶長3(1598)年以降と考えられること、裏込めが少なくあまり高い石垣は築かれていないのではないかと考えられること、大坂夏の陣以前に破壊されていること、少なくとも2度の造り替えが行われていること、場所によって積み方や石材が異なっていることなどの特徴が見られます。

図1.慶長5年当時の大坂城全体図(中村博司氏『天下統一の城』新泉社、2008より)

図1.慶長5年当時の大坂城全体図(中村博司氏『天下統一の城』新泉社、2008より)

惣構堀の内側に広い三の丸を設定し、城の三つの出入り口を堀や石垣で防御する復元案です。

もっとも残りのよい部分はドーンセンターの敷地で見つかった花崗岩の自然石を中心とした石垣で、現在、ドーンセンターの敷地北端に移築復元されています。実際に石垣が発見された位置は、復元されている位置より約20m南側の地下約3mで見つかっています(図2)。ていねいに復元されており、豊臣期大坂城の石垣を自由に見学できる唯一の場所として貴重な見学スポットとなっています(写真1)。

また、ドーンセンターの東隣にある追手門学院小学校では、校舎の建て替え工事に先立つ発掘調査でドーンセンターで発見された石垣と連続する石垣が発見されています(写真2)。発見された石垣を比較しますと追手門学院で発見された石垣の石材は、花崗岩に加えて安山岩の割り石が目立っています。総延長150mの石垣の中には石材や積み方が明らかに変化する場所があり、その変化も京橋口の豊臣期石垣の特徴となっているといえます。

写真1.ドーンセンター北に移築復元された豊臣時代の石垣(西から)

写真1.ドーンセンター北に移築復元された豊臣時代の石垣(西から)

花崗岩の自然石が多く使われており、もっとも残りのよいところで2.7mの高さがあります。

ところで、追手門学院小学校東側の通用門の塀に、花崗岩の自然石を使った「石垣」が復元されています(写真3)。この石垣は構内の調査で出土した石垣石材を使用して復元されたもので、ドーンセンターに近い敷地の石垣が「復元」されているようです。この「石垣」も京橋口周辺の豊臣時代の遺構の広がりを知ることができる貴重な「展示」となっています。

追手門学院小学校の卒業生であり、豊臣石垣公開プロジェクト「太閤なにわの夢募金」のサポーターをつとめていただいている小説家の万城目学さんは、著書『プリンセス・トヨトミ』の「あとがきにかえてエッセイ なんだ坂、こんな坂、ときどき大阪」のなかで校舎の建て替えの際、豊臣時代の金箔が残った瓦や城の石垣が、グランドの下から出土」したことや、「古い校舎には“秀頼の抜け道”があると信じられていた地下へつながる階段があった」ことを書いています。学園の位置する場の歴史性と伝統が万城目さんの小説に色濃く反映されているともいえるのではないでしょうか。

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