太閤秀吉が築いた初代大坂城の石垣を発掘・公開への取り組みと募金案内。

豊臣石垣コラム Vol.86

公開事業に伴う発掘調査の経過(5)
-詰ノ丸地表面の確認-

調査地の位置

第5次(OS15-4、3区)調査の範囲は、水道局配水池の敷地内でこれまで未調査のまま残されていた場所にあたります。

西半部は下層に豊臣期の詰ノ丸石垣が埋まっている部分、東半部は、詰ノ丸石垣を埋める徳川期の厚い盛土層が堆積する部分に当たり、第3次調査で見つかった徳川期の舗道遺構の延長を確認する範囲まで調査を行いました(図1)。

西半部では豊臣石垣の裏込め部分が32年ぶりに姿を現しました(写真1)。昭和59(1984)年の調査で裏込めは確認されていましたが、その奥行きは明確ではありませんでした。今回の調査により裏込めの範囲が南面石垣で約2.8m、東面石垣で約2.2mの規模であることがわかりました。

図1.第5次調査の位置

図1.第5次調査の位置

写真1.豊臣期石垣南面の一部と裏込めの様子

写真1.豊臣期石垣南面の一部と裏込めの様子

詰ノ丸石垣上端の確認

調査地点は中井家所蔵『豊臣時代大坂城指図』や『夏の陣図屏風』において櫓が描かれている場所です。石垣が崩されていなければ櫓の遺構が見つかるはずです。しかし、昭和59(1984)年の調査時点で隅角部を中心に石垣が崩されており、本来平らに整地されているはずの石垣上端は掘りくぼめられ、裏込めの栗石が顔を出している状況でした。

しかし、今回調査を行った裏込めの背後の部分で、夏の陣焼土に覆われた詰ノ丸地表面と考えられる遺構面が確認されました。そこでは櫓の礎石を据え付けるために掘られた礎石の「据え付け跡」が確認されました。また、新たに発掘された東面石垣の天端が、詰ノ丸地表面と同じ高さで見つかっていますので、今回発掘された東面石垣北端の石垣は徳川期に崩されていないことが明らかになりました。

写真2.東面石垣上端部と礎石転用石材

写真2.東面石垣上端部と礎石転用石材

また、東面石垣北端で見つかった石材は、隅角部に使用された礎石ほど大きくなく、表面の風化も進んでいて、特徴は異なりますが、柱座を作り出した礎石の転用石と考えられています(※1)。様々な形状の礎石が使われていることから、詰ノ丸石垣に多くの転用材が使われていることが改めて明らかにされたといえます(写真2)。

詰ノ丸石垣を埋めた盛土層

徳川再築時の盛土層は調査範囲内では詰ノ丸から東内堀に向かって緩やかに傾斜して見つかっています。意図的に東に落ちる傾斜をつけていたのか、400年の経過の中で盛土の厚い部分が自然と下がっていったのか、定かではありません。この盛土層上面で第3次調査において確認された徳川期の舗道遺構の連続が確認されました。舗道遺構の延長が確認されたことから、遺構を現地保存することを前提として公開施設の建設範囲を変更することを確認し、調査を終了することとなりました。

平成28(2016)年2月6・7日には平成27年度で2回目となる現地公開を行いました(写真3)。豊臣期の詰ノ丸石垣の再々発掘ということで、多くの参加者がありました。第5次調査は狭い面積の発掘でしたが、2013年から継続して実施してきた遺構調査の区切りとなるものとなりました。

写真3.現地公開の様子(2016年2月7日)

写真3.現地公開の様子(2016年2月7日)

※1:京嶋覚2016「秀吉の大坂城詰ノ丸を発掘-石垣と夏の陣のつめ跡-」大阪市文化財情報『葦火』181号

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