第3次(OS14-4)調査では、第1次調査の東側と金蔵南側の遺構確認調査を行いました。第1次調査の範囲では瓦を大量に捨てた徳川期の「瓦溜まり」がいくつも見つかりましたが、隣接する第3次調査地では徳川期の瓦溜まりはありませんでした。
かわって見つかったのが舗道遺構(小石を敷いた通路)です。南東から北西方向にほぼ直線的に延び、道の両側に浅い側溝を掘っています。また、幹線から派生した細い舗道も確認されています。第1次調査で見つかった大規模なごみ捨て穴と舗道遺構は、平面的には重なっていません。
19世紀前半の大坂城を描いたといわれる『浪華城全図』には、天守台や金蔵東側の広い空地に通路と考えられる白いラインが描かれています。発掘調査で見つかった舗道は、ここに描かれた通路であると考えられます(図1絵図参照)。
写真1. 第3次調査で見つかった「舗道」遺構
大坂城において、徳川期の舗道遺構は初めての発見でした。舗道遺構が発見された範囲は、当初の予定では公開施設建設のため掘り下げられる予定部分と重なっていましたので、計画を変更する必要が生じました。そのため、舗道遺構が敷地全体でどのように残っているのかを確認することとなり、調査の結果、図のように舗道遺構が残っていることがわかったのです(図1)。
図1. 第3次調査成果の説明板
舗道が見つかった周囲には幕末から明治にかけての遺物を含むごみ捨て穴がいくつも掘られていました。出土した遺物の中には大阪鎮台に関わる文字を書いた遺物が多数出土し、すでに本コラムでも紹介しています。
また、珍しい遺物としては幕末から明治初期にかけて使われたスペンサー銃とスナイドル銃の2種類の薬きょうがあります。スペンサー銃は1860年にアメリカで開発された銃で戊辰戦争の時は旧幕府軍、政府軍とも保有していたそうです。また、スナイドル銃はイギリスのエンフィールド造兵廠で開発された前装式ライフル銃を後装式に改良した小銃で、明治初期から明治30年まで明治政府軍の主力銃となっていました。このように、出土した薬きょうは近代の大坂城の歴史を物語る貴重な遺物といえるものです(※1)。
金蔵南側の遺構については、前回のコラムでも紹介しました。現存する金蔵は、徳川期初期に建てられた長屋風の建物の一部が寛延4(1751)年に金蔵に造り替えられ現存していると考えられています。金蔵南側の調査では造り替え以前にあった長屋風建物の礎石ではないかと考えられる石材や、南北方向の石列などが良好に残っていました。
金蔵の西側には本丸御殿の建物が建てられていましたので、地下には徳川期の遺構がよく残っていることを想起させる調査状況であったといえるでしょう。
豊臣石垣の公開施設に、あなたのご寄附を
ふるさと納税で応援