昭和59・60年に発見・調査された石垣は、配水池南側の園路部分と、配水池斜面の盛土下に埋戻されました。掘り出された石垣は秀吉時代の大坂城中枢部(詰ノ丸)の石垣として城郭関係の書籍などに紹介され、広く知られる存在となりましたが、現地には石垣の存在を想起させるものはなく、詰ノ丸石垣の位置を知ることができない状況でした(写真1)。
写真1. 埋め戻された豊臣期石垣
表1. 平成25年度から令和2年度までの調査と現地公開一覧
図1. 平成25年度から27年度までの調査範囲
平成25(2013)年度になって、大阪城の魅力向上事業の一環として豊臣期の地下石垣を常時公開する施設の建設が計画されました。豊臣時代の詰ノ丸石垣を再調査し、公開する事業の始まりです。昭和59年の発掘から29年後のことになります。
調査は公開施設建設予定範囲の徳川期の遺構を確認することから始まり、令和2(2020)年度まで6次にわたる発掘調査を行いました(表1・図1)。調査の節目ごとに現地公開を行うとともに、調査成果をまとめた解説板を公開予定の敷地を囲う鋼板塀に掲示しました(写真2・3・5)。また、調査を担当した大阪市文化財協会の広報誌『葦火』には速報的に調査成果が報告されていますので参照してください(※1)。
ところで、各年度に行われた発掘調査の呼称は「OS13-11」などと呼んでいます。OSは遺跡名の大坂城跡の略で2013年度の11番目の調査であることを示しています。ここでは正式な調査次数と別に、通算の調査次数を仮にふり(表1)、記述していきます。
写真2. 鋼板塀の解説板を見る来場者
写真3. 鋼板塀に掲示した第 1 次(OS13-11)調査結果の説明版
徳川期の瓦を大量に廃棄した「瓦溜まり」や、金蔵の東側に南北にのびる石列と溝が見つかりました。瓦溜まりからは、現在ミライザ大阪城内の展示室に展示している「三つ葉葵」紋の巨大な鬼瓦などが出土しました。これらは寛文5(1665)年に焼失した徳川期の天守に使われていた可能性があります(『葦火』168・176号)。
昭和59(1984)年度に発掘された豊臣期石垣に変異が見られないか、また第1次調査で見つかった石列と石組み溝の南への延長を調べることを目的として行いました。29年ぶりに姿を現した石垣は、部分的な発掘ではありましたが明らかな変異は認められず、公開のための調査が続けられることとなりました(写真4)。この時の現地公開は平成26年3月7日~9日に行い、29年ぶりに掘り出された石垣の見学に多数の方が訪れました(『葦火』170号)。
第3次調査(平成26年)以降の調査は、公開施設の計画範囲内の徳川期の遺構を確認することを目的として行われました。次号以降、それぞれの調査で確認された成果について簡潔に紹介していきたいと思います。
写真4. 第2次調査で発掘された豊臣石垣の隅角部
写真5. 鋼板塀に掲示した第2次(OS13-38)調査結果の説明版
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