太閤秀吉が築いた初代大坂城の石垣を発掘・公開への取り組みと募金案内。

豊臣石垣コラム Vol.64

埋められた寝屋川護岸の石垣

京橋西側の石垣

先月のコラムで大阪城北辺の寝屋川護岸石垣について紹介しました。JR環状線大阪城公園駅の西側から京橋南詰の東側まで石垣が連続して確認されることを紹介しました。

ところが、京橋を挟んで西側では護岸石垣は見えなくなります。ただ、日本経済新聞大阪本社(以下日経新聞社と記述)の東北隅にしっかりした石垣が見えます(写真1)。この石垣は一見すると京橋を挟んで連続する護岸石垣のように見えますが、本来この位置にあったものではなく、日経新聞社の社屋建設に伴い発見された石垣の一部が移築されたものです。今回は、大阪城北の外曲輪から続く寝屋川の護岸石垣が京橋の西側でどうなっていたのか調査報告書(※1)から紹介したいと思います。

図1.『大阪実測図』(明治19年測量)(上)
現在の地形図(下)

図1.『大阪実測図』(明治19年測量)(左)、現在の地形図(右)

寝屋川と鯰江川の合流地点が広く陸地となっています。石垣移築展示地点

日経新聞社建設時の調査

明治19年(1886)の地図と現在の地図を比較しますと、川筋が大きく異なることがわかります(図1)。図1右は現在の地形図に明治時代の河川のラインを記入したものです。これを見ますと現在の地形は、京橋を挟んで西側が大規模に埋められ陸地化しています。この埋め立て工事は昭和2年から7年(1927〜1932)にかけて大阪市によって行われた「寝屋川付近都市計画事業」で、その際、大阪城北辺から連続してあった寝屋川護岸の石垣は埋められてしまいました。戦後、この土地に日経新聞社の社屋建設が計画され、その際に埋まっていた寝屋川の護岸石垣が発見され調査が行われました。

調査は昭和50年(1975)3月に予備調査、同年10月から11月にかけて本調査が行われ1977年5月に報告書がまとめられています。

建設予定地内では、地下約4mの深さで延長約70mの石垣が見つかっています。その続きは、大阪歯科大学の敷地やOMMビル敷地でも確認され、総延長400mを超える護岸石垣があったことが分かっています(図1右)。調査で確認された石垣の高さは最も高い部分で1.8m、石5段分が残存していると報告されています。

この70mにわたって発見された石垣を分割して移築保存したものが、敷地北東隅、寝屋川沿いに復元された石垣なのです。この復元石垣は遠目には、一連の高い石垣に見えますが、東西に長く見つかった石垣を切り分けて2段に復元したものです(写真1下、※2)。また、もう1カ所、道路沿いの敷地南西隅の一画にも石垣の一部が移築されており(写真2)、ここには解説板が設置されています。

写真1.日経新聞社北東隅に移築された復元石垣
写真1.日経新聞社北東隅に移築された復元石垣

写真1.日経新聞社北東隅に移築された復元石垣

上:対岸から見た遠景、左の高い橋は大阪橋、下:大阪橋から見た復元石垣近景

京橋の東と西

前回紹介しました大阪城北の外曲輪石垣は、旧化学分析場北側あたりで12〜13段の石積みが確認できます。一方、京橋を越えて西側で見つかった護岸石垣は、最も高い部分で1.8m、5段の石積みであると書かれています。京橋を挟んで護岸石垣の高さが急に低くなっているのです。京橋東側の石垣規模が大きいのは、寝屋川護岸の石垣を兼ねているとはいえ、本来は徳川期大坂城の北外郭の石垣であるからだろうと思われます。一方、天満橋南詰から京橋にかけての川端は「松の下」と呼ばれ、徳川期を通して公有地となっていたようです。護岸の石垣は徳川期の初期から幕末期まで存在し、幕末の絵画や写真が複数残されています(※3)。それによりますと、川岸の背面には雁木(がんぎ)や土手が描かれ、船着き場、荷上場として使われていたようです。

写真2.日経新聞社敷地南西隅に復元された石垣

写真2.日経新聞社敷地南西隅に復元された石垣

刻印石広場に展示された石材

石垣には多数の刻印石が使われています。刻印には複数の大名のものがあり、報告書では大坂城普請で余った石材が利用されているのではないかとされています。刻印石のうち移築復元されなかった石が山里丸の刻印石広場に置かれています。報告書掲載の刻印石の写真と同じ刻印石の現状を示したのが写真3です。刻印石広場の「寝屋川ゾーン」が日経新聞社敷地から見つかった護岸石垣の刻印石であることがわかります。

山里丸の刻印石広場をご覧いただくと、寝屋川ゾーンの石材が他地点の石材に比べて際立って小ぶりであることが分かります。その理由は、護岸石垣に使われたという石材の用途にあったわけです。

写真3.発掘時の刻印石(上)と刻印石広場に置かれた石材(下)

写真3.発掘時の刻印石(上)と刻印石広場に置かれた石材(下)

左は出雲松江・堀尾家、右は豊前小倉・細川家の刻印。右の「あしや」は石材産地の芦屋を示すと考えられています。

※1:徳川時代大坂城外郭関連石垣遺構発掘調査団、1977『徳川時代大坂城外郭関連石垣遺構調査報告-日本経済新聞大阪本社新社屋建設にともなう旧大和川河口付近護岸石垣遺構の調査』

※2:報告書には移築復元の写真はありますが、どの部分がどこに移築されたかは報告されていません。

※3:大阪城天守閣2008『描かれた大坂城・写された大阪城』に徳川期の京橋南詰のようすを描いた錦絵や幕末の写真などが紹介されています。

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