太閤秀吉が築いた初代大坂城の石垣を発掘・公開への取り組みと募金案内。

豊臣石垣コラム Vol.60

大阪城に残る徳川期の井筒(下)

先月は大阪城に残る3基の井筒のうち、修道館西の井筒と桜門内の銀明水井戸の井筒について紹介しました。今回は3基残存する井筒のうち、小天守台にある「金明水」井戸の井筒を紹介し、その後それぞれの井筒や井戸について検討したいと思います。

金明水井戸の井筒

「金明水」井戸は城内に残る井戸の中でもっとも良好に保存されています。昭和44年(1969)に井戸屋形の解体修理が行われ、寛永3年(1626)に建築されたことや、井筒や敷石の状況が明らかになっています(※1)。それによりますと、中央に一辺155cm、高さ92cm(地上部89cm)、石材の厚さ22.5cmの刳り貫き(くりぬき)の井筒が据えられ、この井筒の下には平面台形の石材4枚を組み合わせて方形にした敷石があります。そして、その下に円形の井戸が築かれています(写真1・図1)。

写真1.金明水井戸屋形と井筒・敷石(西から)

写真1.金明水井戸屋形と井筒・敷石(西から)

図1.金明水井戸の井筒と敷石模式図

図1.金明水井戸の井筒と敷石模式図

井筒と敷石の設置状況については、十分に観察することができないのですが、敷石を組み合わせてできる方形の隙間の上に井筒を据えています。ただ、敷石で作られる空間のほうが井筒より若干大きく作られており、井戸を覗き込んだ時に井筒と井戸側(地中の井戸本体の石組み)との間に空隙があります。井筒の上面は角を取って丸く仕上げられ、内側の隅部は幅約7cmの面を四方に作り出しています(図1)。表面は非常に細かな敲打(※2)(こうだ)によって平滑に仕上げられています(写真2)。

敷石の外縁には排水のため溝が彫られており、南東隅の1箇所は敷石の外に水を誘導するように外縁の高まりを切り欠いています(図2左)。彫り窪めた排水溝の底には細かな敲打痕が見られますが、その他の面は光沢をもつほど摩滅しています。井筒の石材は灰白色を呈する花崗岩、敷石の石材は黒灰色の斑れい岩(※3)です。斑れい岩は井戸の敷石としてわざわざ調達されたと考えられ、井筒の精巧な仕上げとあわせて、城内の他の井戸とは格が違っているように感じられます。

写真2.金明水井筒表面の調整痕(白い斑点が工具の痕)

写真2.金明水井筒表面の調整痕

(白い斑点が工具の痕)

それぞれの井筒の特徴

さて、現存する3基の井筒について紹介してきましたが、いくつかの要素で3基の井筒の違いについてみておきたいと思います。

大きさ

金明水井筒は1辺155cm、修道館西の井筒は上段が138cm、下段が153cmです。銀明水井戸は長方形ですが、使用時に井筒の天端であった大きさは短辺130cm、長辺186cmです。銀明水井筒の短辺をとりますと、三つの井筒の口の大きさは130cmから155cmの間にあり、極端な差はないように思われます。

井筒の高さは金明水が92(地上部分は89)cm、銀明水は68cm、修道館西の井筒は109cmあります。修道館西の井筒は全体が地上に出ていたとしますと、釣瓶(つるべ)を使って水を汲むためにはやや高すぎるように思われます。石材の一部は地下に埋められていた可能性があるのではないでしょうか。

石材表面の調整

金明水井戸と銀明水井戸の井筒は花崗岩の表面をノミで敲(たた)いて調整しています。金明水井戸の井筒の調整は非常に細かく(写真2)、それに対して銀明水井戸の井筒の調整は同じ敲打による調整ではありますが、金明水井筒と比較するとだいぶん粗く(一度の打撃による剥離の面積が広く)見えます。

一方、修道館西の井筒は石材の特定ができていなことや表面の風化が進んで明瞭ではないのですが、水平方向の擦痕が部分的に認められます(写真3)。ただ、彫り込みのある部分には敲打痕が見られますので、形を整えた後、最終的に表面を擦って調整している可能性が考えられます。また形状が凸形に作られるなど、他の2例と異なる特徴が目立ちます。この井筒を時期的に古いものと想定される方がいるのも、他と異なる特徴が推定の根拠となっているのではないかと考えられます。

写真3.修道館西の井筒の調整痕(西から)

写真3.修道館西の井筒の調整痕(西から)

(各面に横方向の筋がみられます。)

敷石の形態

(図2)大阪城に残る3基の井筒のうち、金明水と銀明水には井戸に伴う敷石が残存しています。金明水井戸の敷石は厚さ65cmの斑れい岩の板石4枚を組み合わせたもので、一辺約450cmの正方形です。外周には幅13cm、深さ11cmの排水溝を彫り込んでいますが、溝を挟んで内側は外縁より4.5cm低くなるように作られています(写真5左)。

一方、銀明水井戸の敷石は井筒と同じ花崗岩が使われています。井筒は長方形ですが、敷石の規模は金明水井戸とほぼ同じ455cm(15尺)四方です。敷石は内側(敷石a)と外側(敷石b)の二重に作られ、それぞれ4枚の石材を組み合わせています。敷石bの外周近くに幅18cmの排水溝を彫り込み、東南隅で敷石の外に水を逃がすようになっています(写真5右)。金明水井戸とは溝の切り方に少し違いがあります。また、現在四隅に新しい石柱が取り付けられています(写真4)が、本来はこの下に井戸屋形の柱を立てる穴あるいは金明水井戸のような礎石が据えられていたのではないかと思われます(※4)。

写真4.銀明水井筒・敷石全形(南から)四隅の方形の石柱は新しく設置されています。

写真4.銀明水井筒・敷石全形(南から)

四隅の方形の石柱は新しく設置されています。

図2.金明水井戸(左)・銀明水井戸(右)の井筒と敷石平面模式図

図2.金明水井戸(左)・銀明水井戸(右)の井筒と敷石平面模式図

写真5.金明水井戸(左)・銀明水井戸(右)の排水溝

写真5.金明水井戸(左)・銀明水井戸(右)の排水溝

銀明水井戸の敷石石材で最も大きい石は敷石bの長辺側の2石で幅90cm、長さ455cmを測ります。この大きさの石材は石垣の隅石に使用される石材として一般的に見られる大きさです。井筒の石材や調整などをみても、徳川期の石垣石材と共通した特徴があるように思われます。このことから、銀明水の井筒と敷石は石材の選択や加工からみて金明水井戸と比較して実用的に作られたものといえるのではないでしょうか。

徳川期大坂城内の井戸

残存する井筒と石敷きを中心に大坂城の井戸についてみてきました。徳川期の大坂城には29あるいは30基の井戸があったとされています(※5)。次回は大坂城の井戸に関るいくつかの話題をとりあげ、まとめとしたいと思います。

※1:大阪市1969『重要文化財大阪城大手門・同南方塀・同北方塀・多聞櫓北方塀・多聞櫓・金明水井戸屋形・桜門・同左右塀修理事業報告書』

※2:石材の表面をノミなどの道具を介して繰り返し敲(たた)いた痕跡

※3:石材については公益財団法人大阪市博物館協会、大阪文化財研究所の小倉徹也さんからご教示をいただきました。

※4:移転前の絵葉書(前号写真2)に写る井戸屋形は敷石から柱が立ち上がっているように見えますが、徳川期のことは明らかではありません。

※5:徳川期の大坂城の井戸総数は29基とされるもの(小野清『大坂城誌』)や30基とされる『宝暦二年 大坂御城内外諸覚書』などがあります。

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