大坂城には徳川期の井筒が3基残存しています(図1)。1基は前回その来歴について紹介しました 修道館西側の井筒(図1写真下)、もう1基は桜門を入った西側にある手水に使われている銀明水井戸の井筒(図1写真中)、3基目は小天守台にある金明水の井筒(図1写真上)です。金明水と修道館西の井筒は一石を刳(く)り貫(ぬ)いたもの、銀明水の井筒は亀裂が入り現状では大きく3枚に分離していますが、割れの状況を見ますと他の2例と同様、一石を刳り貫いた可能性が高いのではないかと考えられます。3基の井筒は形状や表面の仕上げなどそれぞれ異なる特徴を持っています。今回はそれぞれの井筒について紹介し、その違いの意味について考えてみたいと思います。
図1.残存する井筒、井戸の位置と現状写真
底辺の長さ153cm、高さ109cmを測る方形の井筒です。表面は火を受けて変色し剥離も進んでおり、石材の特定はできていません。他の2例が表面をノミで敲(たた)いて整形しているのに対し、筋状の整形痕が目立ち、表面の仕上げの方法が他の2例とは異なっています。上端から約43cmの位置で幅を狭め、上が小さく下が大きい二段に作られています(上段・下段と記述)。上段は一辺138cmを測ります。現在置かれている状態で、東面と西面の二方に幅16cm、長さ約30cm、現存深さ最大9cmの長方形の抉り込みがあります。この長方形に抉(えぐ)りこまれた部分中央と、その上方43cmの位置に直径3.5cmの円孔があけられています。この円孔部で測った石材の厚さは約20cmです。南面と北面には抉りはなく、円孔もありません。
図2.修道館西、井筒模式図
写真1.北面下段の文字
図3.志村清氏による修道館西の井筒上部の推定復元
また、北面の下段に「東」の字が刻まれています(写真1)が、他の面に文字を確認することはできません。長方形の抉りの用途は井戸を覆う屋根あるいは釣瓶を掛けるための梁を受ける柱を固定するためのものではないかと考えられます(図3)。ただ、柱の下端が抉り込みの部分で止まるのか、井筒の一部が地中に埋まっていた可能性があるのではないかなど、不明なことも多くあります。
現在は、転落防止のため花崗岩の板石によって開口部を塞いだうえ、円孔に通した鉄筋に鎖を通して石材を固定しています。上部を塞いだ石材などは、火を受けておらず新しい時期のものです。
銀明水の井筒は他の2例と異なり、長方形です。底部と上端で長さが異なり、上部の方が12cmほど大きくなっています(図4)。ところが、井筒として使われていた時には上下が逆転していたことを城郭研究家の志村清さんに教えていただきました。井筒が移転される前に撮影された銀明水井戸の絵葉書(写真2)をみますと確かに上部の方が狭くなっています。絵葉書の井筒には2本の筋(亀裂)が写っています。桜門枡形内に置かれた現状の井筒を確認しますと南面に2本の亀裂が見られます。上下を逆転させ絵葉書と並べてみますと絵葉書に写る亀裂と、現状の亀裂が一致していることがわかります(写真3)。
図4.銀明水井筒模式図
写真2.移転以前の銀明水井戸(志村清氏提供)
写真3.移転前の銀明水井戸(上)と現況(下)の対比
(現況の井筒の写真は上下逆転させています)
また、徳川前期の本丸御殿を描いた『大坂御城御本丸並御殿絵図』(※1)では銀明水の位置に方形の屋形とその中に東西に長い長方形の輪郭が描かれています。このことから徳川再築当初から東西に長い井筒があったことが推定されるのです。
銀明水井戸の位置は本丸御殿の台所東北隅にあり、本丸を警護する役人達の飲料水として使われたものと考えられます。
石材は花崗岩(※2)で各辺の稜は丸く仕上げられています。内側の角は面取り状に加工され、石材の厚みは18cmあります。また、長辺となる2面には直径約3cmの円孔が4ヶ所あけられています。当初からあけられていたと考えますが、用途については定かではありません。他の2例に比較して表面の調整が粗く、ノミによる調整の凹凸が目立っています。
今回は修道館西にある井筒と、桜門桝形内に置かれた銀明水の井筒について紹介しました。次回は小天守台にある金明水井戸の井筒について紹介し、徳川期大坂城の井戸全般についてみてみたいと思います。
豊臣石垣の公開施設に、あなたのご寄附を
ふるさと納税で応援