大阪城二の丸にある修道館の西側に、大阪市教育委員会が設置した「石山本願寺推定地」の史跡顕彰碑と解説板があります(写真1)。よく知られていますように、秀吉の大坂城は石山(大坂)本願寺の遺構を利用して築いたとされており、本丸・二の丸の下には本願寺と寺内町が眠っていると考えられています。ただ、顕彰碑が設置されている場所から本願寺の遺構が発見されているわけではなく、あくまでも設置場所周辺が本願寺推定地というものです。
ところが、その解説板のあるすぐ近くに1.5m四方の四角い凸形の石材が置かれており(写真2)、この石材が「蓮如井」と呼ばれていた井戸の井筒ではないかと考えている、ということを城郭研究家の志村清さんからお聞きしました。
もしそうであれば、本願寺推定地の顕彰碑の横に蓮如に関係すると伝承される遺構が残されていることになり、非常に注目されます。今回はこの石材について紹介したいと思います。
写真1.石山本願寺推定地の史跡顕彰碑と井筒(北西から)
写真2.井筒近景、井筒は空洞で新しい石材で蓋がされています(北西から)
この石材については、昭和57年に刊行された『大阪城への招待』という書籍に収録された内田九州男さんの「大阪城の古井戸」に詳しく紹介されています(※1)。内田さんの報告をまとめますと、以下のようになります。
図1.『金城聞見録』に描かれた「下馬之井」(志村清氏提供)
図2.『大阪実測図』(明治19年測量)に描かれた「下馬之井」
以上の内容をまとめますと、修道館横の四角の石材の下には徳川期の西大番衆小屋にあった井戸があり、石材は徳川期の井筒であること、大坂城内の徳川期の井戸はこのような刳り貫きの井筒を使っていたのではないか、そして、修道館横の井筒が徳川期の絵図に描かれている大手土橋の外にある「下馬の井」と近似することから、「下馬の井」にも同じような井筒が使われていたのではないかと書かれているのです。
一方、志村さんからは、修道館横の井筒は玉造門近くに置かれていたことを確認されていること、昭和58年(1983)に行われた「大阪築城400年まつり」の前に現在の修道館横にある井戸の上に移されたと記憶しているということを教えていただきました。そして、玉造口に置かれる前は、大手土橋外の「下馬之井」すなわち「蓮如井」に使われていた井筒が玉造口に移されたのではないかと考えておられるとのことでした。
そうしますと、現在修道館横にある井筒は元来大手土橋外にあって『金城聞見録』や「浪華城全図」に描かれた井筒ということになるのですが、「それは私の推測です。」と笑っておられた。ただ、推定の根拠と考えるご意見や井筒の復元案などを聞かせていただきました。いずれにしても修道館西側の井筒は、徳川期に他の場所で使われていた井筒が現在の場所に移動されたものであるということのようです。
現在、大阪城には修道館西側の井筒のほかに徳川期の井筒が2基残されています。次回は残存する井筒について紹介し、その違いと理由について考えてみたいと思います。
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