先月号 で紹介しました「謎の地下石垣」の公開の際、いくつか質問をいただきました。その場では十分納得いただける答えを返すことができなかったかもしれませんが、どのような質問があり、どのように答えたのかについて紹介したいと思います。
質問は以下の4点に集約できます。
いただいた質問のうち、④の豊臣期の天守の位置については絵図で明らかになっています。天守閣の東にある配水池の北東になります(写真1参照)。京街道を使って京から大坂に入った時に、真正面に黄金に輝く天守が見えるように、設計されたとの説があります。残りの①から③の質問は、いずれも大坂城が立地する地形に関る質問です。
①については、豊臣氏の大坂城を完全に埋め殺しにすることで、豊臣氏の痕跡を消し去ろうとしたため、という考え方もあるのでしょう。しかし、徳川期の本丸広場の状況を見ると、広い平坦面を作り出す必要があったのではないかと思われます。造成に際して、豊臣期大坂城の最も高い曲輪である詰ノ丸の高さにあわせて造成したのではないか、と答えました。
その結果、豊臣期の地表面に達するためには、最も低い堀底からは20m以上、下ノ段からは10数m、中ノ段では約7m、詰ノ丸では約1mという盛土の厚さの違いが生じていると考えられます。
豊臣石垣公開予定地では、徳川期の再築工事で行われた盛土層が見つかっています。この地層は青味がかった緑色の粘土の塊を多く含んでいます。この粘土の中には自然の貝化石が比較的多く含まれており、海で形成された地層であることが分かります。
この貝化石を含んだ地層は、大坂城が立地する上町台地の地層を形成する「上町層」のなかで「上町層中部」あるいは「Ma12」(※1)と呼ばれる地層と考えられます(図1参照)。この粘土層は標高数mから10数mに分布しており、玉造口周辺の崖面では自然の堆積が確認されています。
写真1.本丸全景と豊臣期天守の位置
大阪城の内堀や外堀はこの上町層を掘削して築かれていますので、徳川再築の際に運ばれた盛土は、内堀や外堀を掘ることで出てきた土砂を利用しているのではないでしょうか、と見学会の時にはお伝えしました。
徳川期の姿を残す現在の内堀は南内堀が空堀になっています(写真1参照)。「豊臣大坂城本丸図」でも豊臣期の南内堀は空堀となっていますので、徳川期も豊臣期の堀を踏襲しているといえます。
図1は大阪城の堀の深さと地層の関係を示した断面図です。これを見ますと、水堀の底は上町層下部の砂礫層に達していることが分かります。この地層が湧水層で天守にある「金明水」の井戸底も同じ砂礫層に達しています。ところが、南内堀の底は、上町層上部の砂礫層で止まっています。南内堀が空堀である理由は、堀底が湧水層に達していないからです。
しかし、湧水層に達する深い堀を掘れば水堀にできたのではないか、とも思われます。桜門の土橋があるあたりは、大阪城の中では地形的に最も地山(※2)となる上町層が高い位置で見つかる場所です。堀は、現在の地表面に近い高さから掘り始めなければなりませんでした。そして、断面図を見る限り、湧水層に達するためには現在の堀底からさらに約10mも掘削する必要があるのです。そのためには、堀幅を広げる必要もあったのではないでしょうか。豊臣期も徳川期もこの部分を空堀で残した理由は、このような物理的な制約が大きかったのではないかと考えられるのです。
図1.大阪城南北断面模式図
ただ、この質問をされた方は、このような回答を期待されていたのではなく、わざと空堀にしたことに意味があるのではないかと思われての質問であったのかもしれません。そうなりますと、納得できる説明にはたどり着けません。空堀として残した理由についてはこれからも考えてみたいと思います。
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