本年も5月3・4・5日に本丸広場で大阪城ファミリーフェスティバルが開催されました。「太閤なにわの夢募金実行委員会」でも昭和34年(1931)に発見された「謎の地下石垣」の特別公開を実施し、豊臣石垣公開プロジェクトのピーアールに努めました。
地下石垣の公開を知り、わざわざ見学に来ていただいた方もいれば、偶然公開に遭遇して見学できてラッキーだったという方、「ブラタモリ」や「ごぶごぶ」などテレビ番組で取り上げられたのを見て知ってはいたが初めて見た、という方など、3日間で約2,000人の方に見学していただきました。
見学に際しては昭和34年発見の石垣(図1-A地点)と、現在公開事業を進めている詰ノ丸の石垣(図1-B地点)との関係を示す模式図(図1)のはいった資料を作成し、お配りしました。模式図を見て地下に豊臣期の大坂城が埋まっていることをすぐに理解していただける方がいる一方、白黒のコピーでは、逆に分かりにくかった方も多かったようで、説明することの難しさを感じたものです。
しかし、地下約7mの深さに残る石垣を見て、純粋に驚かれる方がほとんどで、徳川期大坂城の造成工事のスケールの大きさに驚かれる方、豊臣期の大坂城が深い(低い)位置にあることに驚かれる方など、地下石垣の感じ方はそれぞれ違っているようでした。
図1.謎の地下石垣と詰ノ丸石垣の関係模式図
さて、地下石垣の説明をする中で、豊臣期の水堀の痕跡が現在の大阪城(徳川の大坂城)の遺構にも残っていることを説明しました。今回は、現在に残る豊臣大坂城の痕跡について紹介したいと思います。
天守閣の西側の園路を北に進みますと、山里丸へ降りるスロープがあります。現在は仮設の通路で舗装されていますが、その下には階段があり、「姫門」と呼ばれる門がありました。姫門を出て東に行くと、山里口門があり山里丸へと続きます。
また、姫門を出て西へ行くと南北に長い帯曲輪に出ます。「隠し曲輪」と呼ばれ、城が攻められた時に兵士を隠しておく曲輪とされています。隠し曲輪と言われるだけあってここに曲輪があることは分かりづらく、本丸に人があふれている時でも、落ち着いて大阪城を感じることができる場所ともいえます。
この隠し曲輪の南端に立って南を眺めますと、眼下に本丸西側の水堀とそれに続く空堀、それらを挟んで広がる西の丸が一望できます。特に本丸の高石垣(たかいしがき)を間近に見ることができる、絶好の石垣見学スポットということができます。
図2.徳川期大坂城の建物配置(志村清氏原図)
さて、その場所から本丸石垣の天端を見ますと、部分的に高さが低くなっています。この部分は、水堀と空堀が交わる部分と一致しています(写真1)。
この一段下がった部分が 先月号で紹介しました櫻井成廣氏の著書(『豊臣秀吉の居城』大阪城編)で、豊臣期には水堀が深く入り込み、徳川期になって現在の高さに埋められたとされる場所にあたります。
現在の本丸地下に抉り込むように水堀が存在することは、今では広く知られた事実ですが、徳川期の遺構にもその痕跡を残しているのです。ではなぜ、徳川再築時にこの部分を低くしたのでしょうか。この部分を他の部分と同じ高さにすることは難しいことではなかったと思われるのですが、理由があって行われたことであろうと思います。あるいは、その理由はすでによく知られていることなのかもしれません。
写真1.隠し曲輪南端から本丸石垣を望む
大阪城を訪れた際には、是非隠し曲輪から本丸を眺めていただき、この下に豊臣大坂城の堀があるということに思いを馳せていただければと思います。次号では見学会で質問いただいたいくつかのご質問について、紹介したいと思います。
写真2.豊臣期の堀の位置(推定)と地下石垣の位置
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