大阪城本丸広場にある観光ボランティア詰所の北に、花崗岩製の手水鉢(ちょうずばち)が置かれています(写真1)。
長辺約100cm、短辺72cm、高さ36.5cm以上を測り、正面と考えられる胴部に「有孚」と深く彫り込まれています。上面にある水溜の窪みは隅丸長方形で、長辺54.5cm、短辺21.0cm、深さ約9cmを測ります。真上から見ると文字が刻まれた二辺が斜めに交わり、正面が尖った三角形を呈するように見えます。側面は自然石の地肌を残し、文字の左右には窪みがあって、「有」の字は正面から見ると斜めに彫られているように見えます(写真2)。
背面にも文字が刻まれていますが、正面側の文字と異なり、細く鋭い線刻で書かれています。石材表面の剥離によって文字の多くは判読できませんが、「藩」の字とその下にもう一文字判読できそうな文字があります(写真3)。手水鉢は火を受けているようで、背面側は石材表面の風化が激しくなっています。また、石の目と考えられるクラックが上面と側面に観察されます。
写真1.本丸植込み内にある手水鉢
この手水鉢の存在については大阪城に詳しい人にとってはよく知られたものであるのかもしれませんが、筆者は最近になって、この手水鉢のことがいくつかの書籍に書かれていることを知りました。
昭和6年(1931)11月5日に発行された『大阪城物語』に豊臣時代から使われていた手水鉢として紹介されています。
現在の天守閣が竣工したのが昭和6年11月7日ですから、この竣工に合わせて発行された書籍です。著者は恒次壽、発行所は国勢協会となっています。口絵には天守閣復興に関った大阪市の職員や外部の専門委員が写真入で紹介されています。この中に、手水鉢のことが以下のように書かれています。
「春風秋雨ここに三百数十回、天下の権と財力とをあつめて、日夜に豪華を極めた豊公一家の生活は実に槿花一朝(きんかいっちょう)の夢であった。その華麗かなりし昔を偲ぶには余りに貧弱なる一基の花崗岩(みかげいし)の手水鉢が城内に残っているだけである。(中略)この手水鉢は淀君が城内の大奥で朝に夕に使ったものであると聞かされては、つくづくと世の無常感に寂滅(めい)る心持になる。その手水鉢の表には『有孚(いうふ)』の二字が鮮かに彫られてあるのが目に付く、裏面には十数字かの文字が刻りつけられてあるが、摩滅して読むことができぬ。この磨滅の程度から見て、手水鉢は三百年以上の歳月をへたものと考えられる。(後略)」
このように、昭和初期に、この手水鉢を淀殿と関連付けて捉える説があったことが分かります。
手水鉢を紹介したもう一冊の書籍に、櫻井成廣氏の『豊臣秀吉の居城』大阪城編があります。この「第四章 遺構及び遺品」「金石物井戸」の項に次のように紹介されています。
写真2.手水鉢近景
「徳川氏時代本丸表御殿の西側に庭園があって「御数奇屋囲い(※1)」と呼ばれ「虎」と彫った織部型燈籠(おりべがたとうろう※2)、及び「有孚」と彫った蹲踞(つくばい※3)が据えられていた。蹲踞は今日も城内に残っているが、徳川時代末の城中案内書に、この庭を利休の作としているのは間違いで、前記の如く豊臣時代には其の辺は水堀が城中へ入り込んでいた場所(※4)で、其の故にこそ樹木が此の辺だけは茂るのであろう。」と書かれています。櫻井氏は「有孚」手水鉢が徳川期の本丸御殿にあった茶室に伴うものであったと考えられているのです。
このように、この手水鉢が徳川期の本丸御殿の茶庭にあったとされる一方、同じ手水鉢のことを書いていると考えられる徳川期の『大坂御城順路書』(※5)には以下のように書かれています。大坂城が蓮如上人の坊舎の旧跡であることを述べた後、その時代より「御庭内数寄屋跡ニ利休作ノ自然石手水鉢有一谷とも申伝亦其八十島とも云」。手水鉢が利休作で「一谷(いちのたに)」あるいは「八十島(やそじま)」といわれていたと書かれていますが、「有孚」の文字が彫られているとは書かれていません。
写真3.手水鉢背面
このことから、徳川期の『大坂御城順路書』に書かれた手水鉢が、今回紹介した「有孚」手水鉢であると断言することもできないのです。しかし、これまでみてきた三冊の書籍の内容を総合しますと、徳川期に利休作と伝えられてきた手水鉢があり、近代になってその手水鉢が本丸広場に残る「有孚」手水鉢であると考えられていたことは間違いないのではないかと考えられます。その来歴については、これからも調べてみたいと思います。
豊臣石垣の公開施設に、あなたのご寄附を
ふるさと納税で応援