太閤秀吉が築いた初代大坂城の石垣を発掘・公開への取り組みと募金案内。

豊臣石垣コラム

確認された豊臣期大坂城東中ノ段石垣

豊臣時代の本丸が三段造りであり、公開予定の石垣が本丸の最高所にある「詰ノ丸」と2段目の曲輪である「中ノ段」を繋ぐ石垣であることは、平成25年12月号のコラムでも紹介しました。もっとも高い位置にある詰ノ丸は現在の地面から約1m、中ノ段帯曲輪の地表面(詰ノ丸石垣の基底部)は約7m、下ノ段ではさらに深い位置に豊臣期の本丸が眠っていることがわかっています。たとえば万国博覧会のタイムカプセルの位置では地下約25mの深さから石材が確認されており、本丸内に深く入り込んだ内堀に関係する遺構の可能性があります。平坦面が広がる現在の本丸の姿からは、豊臣期の段築された本丸の姿をイメージすることは難しいでしょう。

しかし現在では、徳川幕府京大工頭を勤めた「中井家」から発見された「本丸図」の詳細な検討によって、豊臣期の本丸の姿を細かく復元することが可能になってきています。募金の記念メダルの台紙にも掲載させていただいている宮上茂隆氏の復元イラストは、皆さまもよくご存知でしょう。氏は復元イラストの作成とともに、豊臣期の推定本丸図と現在の地形図の重ね合わせ図を示しています(図1)。

この重ね合わせ図は昭和59年1月1日発行の『季刊大林』に掲載されたものです。詰ノ丸石垣が発見された発掘調査は同じ昭和59年10月から始まっていますので、宮上氏の重ね合わせ図の発表がもう少し遅ければ、発見された石垣の位置を反映したもっと詳細な検討が可能だったことでしょう。それはさておき、宮上氏が復元図を発表された段階では昭和34年に発見された中ノ段の石垣以外には、定点となる豊臣期石垣は発見されていませんでした。昭和59年の発掘によって詰ノ丸南東隅の石垣の位置と高さが確定し、宮上氏の重ね合わせ図の正確さが証明されることとなりました。とはいえ、中ノ段の石垣や下ノ段の石垣の位置が実際にどの位置にあるかを確定できるわけではありません。

図1.宮上茂隆氏の豊臣期・徳川期本丸重ね合わせ図

図1.宮上茂隆氏の豊臣期・徳川期本丸重ね合わせ図

「秀吉築造大坂城本丸の復元」『季刊大林』No.16、1984 から作成。配水池の南側で発見された公開予定の詰ノ丸南東隅の石垣が配水池の敷地内に復元されるなど、細部で誤差はあるが、精緻な復元案が示されている。

そこで、昨年度の発掘調査のなかで、公開する石垣周辺部の状況を確認するための調査をあわせて実施しました。調査方法は「動的コーン貫入試験」といい、約60kgのハンマーを落下させ、コーンと呼ばれる円錐を地中に貫入させていくもので、堅い物体に当たると貫入できなくなることから石垣などの位置が確認できます(写真1)。

コーン貫入試験は東西方向と北西から南東方向の2本のラインで行いました。その結果、★印で示した5ケ所において深さ6.7〜9.8mの深さで貫入ができなくなる地点が確認されました。昭和54年に配水池の中で実施された地質調査でも石垣と考えられる石材に当たっていて、今回の調査結果と合わせて考えますと中ノ段東外郭の位置が、配水池南東隅の石材確認地点から今回の貫入試験によって貫入ができなかった地点を結んだラインであると推定することが可能となってきました(図2)。

先の発掘調査では詰ノ丸南東隅の石垣が発掘されていますので、今回中ノ段東外郭石垣の位置が確認されたことにより、中ノ段帯曲輪の幅がこの地点では約25mあることが推定されることとなりました。また、中ノ段東外郭石垣の位置から現在の内堀石垣までは10数mあります。豊臣期大坂城の内堀石垣は徳川期の石垣の内側にあると考えられていますので、下ノ段の幅が狭かったことも推測できるようになりました。

これからも、豊臣大坂城の実態解明に迫るとともに、その成果を展示に反映させていきたいと考えます。

図2.コーン貫入試験によって推定された中ノ段東外郭石垣の位置

図2.コーン貫入試験によって推定された中ノ段東外郭石垣の位置

写真1.コーン貫入試験風景

写真1.コーン貫入試験風景

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