2016年11月号で「秀吉が見た土人形」と題して、大坂城下から出土した豊臣時代の犬の土人形を紹介しました。愛くるしい土人形だったためか、資料を紹介したいという問い合わせがあるなど、予想以上の反響があり驚いたものでした。その後も、犬の土人形については興味をもって見ているのですが、今年が戌年ということもあり、訪れたいくつかの博物館で年明けの展示として、あの犬の土人形が展示されていました。
なかでも姫路市立埋蔵文化財センターでは新春企画展「戌年ですよー!」(展示期間:平成30年1/6〜2/12)の、展覧会チラシに犬の土人形の写真が紹介されていましたので、是非見ておかなければと思い、展覧会を見学してきました。
展示されていたのは、黒田官兵衛とも関係の深い小寺氏の居城である御着城(ごちゃくじょう)の資料、赤松氏の居城である置塩城(おきしおじょう)の資料、そして姫路城下町で出土した資料、辻堂遺跡と豆田遺跡から出土した資料の合計9点でした。展示されていた土人形は、大坂城から出土している土人形とまったく見分けがつかないものと、特徴が異なるものとがありました。
写真1.御着城1
写真2.御着城2
写真3.御着城3
写真4.置塩城1
すこし、細かく見ていきますと、御着城から出土している土人形は3点あり、2点(写真1・2)は発掘調査で出土したもの、もう1点(写真3)は御着城跡周辺の畑で採集されたものと紹介されていました。発掘で出土した2点は、大坂城の犬に比べると大きさはよく似ていますが、顔つきや柱状に作られた脚の造作など、大坂城の犬とはだいぶん違った印象を受けました。一方、採集品の1点(写真3)は、出土品(写真1・2)と胎土もプロポーションも異なり、大坂城の土人形に近い特徴をもっていると感じました。また、展示はされていませんでしたが御着城からは、猪と猿の土人形も出土しており、豊臣時代の大坂城の土人形が犬に限られていることと比べて異なる点です。
置塩城出土の2点(写真4・5)は耳の造作や顔の表情などを見ると御着城の犬(写真1・2)に比べると、大坂城から出土する土人形に近い特徴があると感じました。しかし、大坂城の犬とまったく同じというものではありませんでした。
写真5.置塩城2
写真6.姫路城跡1
写真7.辻堂遺跡
ところで、御着城、置塩城の廃絶年代はいずれも1580年とされていますので、1583年に築城が開始される大坂城の犬の土人形よりも古く作られたと考えられます。形状が大坂城で見つかる画一的な犬と異なることも、年代差を示す証左なのかもしれません。
一方、姫路城下町から出土している犬の土人形(写真6)と辻堂遺跡出土(写真7)の2点は大坂城出土の土人形とほとんど区別がつかないものでした。これらは豊臣時代の資料ではないかと思われますので、播磨地域には豊臣期以前に独自の土人形の文化があったのかもしれない、などと考えながら見学してきました。
高槻市の「しろあと歴史館」でも新春の企画展示として伝世された伏見人形(※1)や住吉人形(※2)の犬が展示されていました。彩色が鮮やかで大きな伏見人形と手びねりで作られた小型の住吉人形は、土人形の多様さや、販売された当時の姿を知ることができ、興味深く見学させていただきました。
しかし、企画展以上に興味深かったのは、常設展示の中に展示されていた高槻城下から出土した土人形です。「土製玩具と人形」として徳川期の土人形や泥面子(どろめんこ※3)などと一緒に豊臣期の大坂城で特徴的なあの犬の土人形が展示されていました。細かな解説はありませんでしたが、展示品が一緒に出土したものであれば、豊臣期に作られた犬が徳川期まで伝世されたのだろうか?あるいは徳川期にも同じ犬の土人形が作られていたのだろうか?などと思いながら見学させていただきました。
犬の土人形は印象深い出土品ですので、皆様もどこかでご覧になることがあるかもしれません。今後も新しい発見があれば、改めて報告していきたいと思います。なお、掲載した画像は筆者が展覧会場で許可をいただき撮影したもので、掲載に際しては姫路市埋蔵文化財センターの許可をいただきました。記して御礼申し上げます。
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