太閤秀吉が築いた初代大坂城の石垣を発掘・公開への取り組みと募金案内。

豊臣石垣コラム Vol.45

発掘された豊臣時代の「お歯黒壺」

木箱に納められたお歯黒壺

徳川期の魚市場が見つかった高麗橋1丁目の調査(本稿3月号)地点で、魚市場の下層から豊臣期のお歯黒壺が出土しました(写真1)。お歯黒は明治時代以前、一定の年齢に達した女性や既婚の女性、また公家の男性がつけていたと言われています。発掘調査で出土したのは、お歯黒の材料となる鉄漿水(かねみず※1)を作るための壺と考えられます。

お歯黒壺が出土したのは、長さ1.05m以上、幅0.55mの穴に埋められた木製の箱の中からです(写真1)。箱の中には、絵唐津向付5枚(写真4)、唐津丸皿1枚、お歯黒に使われた備前焼壺1個、そして木製の容器に入れられた釘がありました。

写真1.お歯黒壺出土状況(高麗橋1丁目)

写真1.お歯黒壺出土状況(高麗橋1丁目)

(財)大阪市文化財協会2004『大坂城下町跡』II より

お歯黒壺の容器である備前焼は筒型の壺で、口縁のすぐ下にしっかりとくびれた頸部があります。肩部が最も大きいのですが、口部の径と肩部の径はあまり差がありません。底部には大きなヘラ記号(写真3)があります。

備前焼壺の中には、鉄釘の束と口径10cmほどの唐津焼碗の中に入れられた短い棒状の鉄(釘の可能性もある)がさび付いた状態ではいっていました(写真2)。

大きな鉄釘は縛られた状況で入れられていましたが、銹(さび)によって正確な本数はわかりません。また、木箱の中に一緒に収められていた唐津焼の向付や皿がどのような用途に用いられたものか明らかではありませんが、未使用の鉄釘が出土していることから、お歯黒や化粧に関る道具が納められていた木箱であった可能性があるのではないかと思われます。

写真2.出土したお歯黒壺

写真2.出土したお歯黒壺

(口径14.8cm、器高16.2cm、 鉄釘と唐津焼碗が入っています)

写真3.お歯黒壺底のヘラ記号

写真3.お歯黒壺底のヘラ記号

写真4.木箱内から出土した唐津焼向付

写真4.木箱内から出土した唐津焼向付

(一番手前、口径13.5cm、器高3.8cm)

お歯黒の材料

ところで、お歯黒は酢酸に鉄を溶かした鉄漿水(かねみず)と五倍子(ごばいし/ふし)粉と呼ばれるタンニン(※2)を多く含む粉を何度も歯に塗ることで非水溶性の黒い皮膜が出来上がるといわれています。

鉄漿水の作り方は、「鉄片を加熱して酢または酒、近世ではさらに出し茶に飴を混ぜた中につけ、褐色になり放香するまで密封して作る」(吉川弘文館『国史大辞典』)とされています。次に、五倍子粉ですが、五倍子とはウルシ科のヌルデに寄生するヌルデシロアブラムシによって作られる「虫瘤(むしこぶ)」を粉にしたものです。これは家庭で自作することはできず、小間物屋や薬種店で市販されていました。

では、これらの材料を使って、どのようにお歯黒をつけていたのでしょうか。

お歯黒の道具と使用法

写真5は ポーラ文化研究所 に所蔵されている江戸時代後期の庶民用のお歯黒道具一式です。

セットを見ますと、「耳盥(みみだらい)」、盥の上に置く「渡し金」、渡し金の上に置かれる「鉄漿杯(かねつき)」、「鉄漿沸し(かねわかし)」、「嗽茶碗(うがいじゃわん)」、「お歯黒筆」、「五倍子箱(ふしばこ)」、「お歯黒壺」があります。

図1は、お歯黒道具を前にして、舌を出した遊女の姿が描かれた浮世絵です。耳盥の上には渡し金の上に載った「鉄漿沸し」と「五倍子箱」が描かれ、「耳盥」の横には水が入った「嗽茶碗」が置かれています。

写真5に見られるセットの内、お歯黒壺と鉄漿杯がこの浮世絵には描かれていません。本来、お歯黒壺で作った鉄漿水を鉄漿沸しに入れて温め、温めた鉄漿水を鉄漿杯にとって、お歯黒筆で五倍子粉と混ぜて歯にぬりますが、この浮世絵からは鉄漿沸しが鉄漿杯の役目も代用しているのではないかと考えられます。

鉄漿水は熱すると臭気が激しく、五倍子粉はタンニンを多く含み非常に渋かったため、お歯黒を塗った後は口をゆすがなければならなかったそうです。嗽茶碗は口をゆすぐために、耳盥はゆすいだ水を吐くために必要だったのです。

また、描かれた女性をよく見ますと、房楊枝(ふさようじ※3)の柄の部分で舌の表面を掃除していることがわかります。お歯黒が終わった後の、舌についた渋みをとる姿を描いているのではないでしょうか。

写真5.庶民用お歯黒道具一式/江戸時代後期

写真5.庶民用お歯黒道具一式/江戸時代後期

ポーラ文化研究所 提供)

図1.お歯黒をする遊女

図1.お歯黒をする遊女

「君たち集り粧ひの図(部分)/安政4年(1857)」
〈歌川国貞(初代)画〉(ポーラ文化研究所 提供)

お歯黒壺はなぜ埋められていたのか

木箱内から出土したお歯黒壺は口を横にして見つかっています。液体が入っていれば漏れてしまったでしょう。埋まっていく過程で壺が倒れた可能性はありますが、一つの解釈として、鉄漿水を抜いた状態で木箱に納め、地下に埋めていた可能性もあるのではないでしょうか。といいますのも、この場所は大坂冬の陣でも夏の陣でも戦場となった地域に当たります。あるいは、一時的な避難の意味で埋めておいたものがそのまま忘れ去られたのか、あるいは、同じ場所に帰ってくることがかなわなかったのかも知れません。大坂では徳川期のお歯黒壺は丹波焼の壺がよく使われますが、豊臣期のお歯黒壺の発見は、徳川期に先立つお歯黒壺の一形態として、新たな資料を提供するものといえるでしょう。

最後になりましたが、今回のお歯黒壺の紹介に当たりましては、ポーラ文化研究所より資料をご提供いただくと共に、お歯黒について貴重なご教示をいただきました。記して感謝申し上げます。

※1.鉄漿水(かねみず):漿(しょう)はどろりとした液状のものをさし、鉄漿と書いてかねと読みます。「鉄漿」を(おはぐろ)と読む場合もあります。

※2.タンニン:植物界に広く存在し、皮革のなめしに用いられる渋の総称。染色にも利用されました。

※3.房楊枝(ふさようじ):楊枝の一方を叩いて房状にしたもの。江戸時代に歯ブラシとして使われています。もう一方は尖らせ、柄の部分はカーブさせ、舌掃除に使われました。

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