昨年12月号で、豊臣時代に大坂でも大規模な護岸工事が実施されていたことを紹介しました。この堤は天満の町を大川の水害から守るうえで不可欠な施設であったと考えられています。ところが、この堤の外側でも豊臣期の大きな屋敷地があったことが発掘調査で確認されています。今回は、豊臣期の天満の開発の一端について紹介したいと思います。
昨年のコラム8・9月号で「上町」の開発は大坂城の築城が開始される天正11年(1583)にさかのぼるのに対し、船場の町割の施工が慶長3年(1598)に行なわれたのではないかということを紹介しました(※1)。天満については、秀吉が内裏を移転させる構想をもっていたという説が有名です(※2)が、内裏の移転は実現せず、天正13年(1585)に和泉・貝塚にあった本願寺(天満本願寺)が誘致されました。
天満本願寺の位置については旧興正寺跡を本願寺と推定する櫻井成廣氏、内田九州男氏の説と、現在の造幣局敷地一帯とする伊藤毅氏の説がありました(※3)。
図1.天満寺内町の構造
その後、天満の開発を検討した豆谷浩之、南秀雄さんは、本願寺が大川に近い位置にあったと考えられることや、興正寺跡地では本願寺の寺域としては狭すぎると考えられることから、造幣局一帯に本願寺があったとする伊藤毅氏の説が正しいのではないかとされています。
また、寺内町の範囲については、西限が天満宮境内の東端まで、南限は大川、北限は天満東寺町まで、東端は12月号でも紹介した堤防の縁までと考えられています(図1、※4)。堤の規模は基底部の幅20〜25m、天場の幅約7m、高さ3m以上を測る大規模な堤跡です。
さて、天満にあった本願寺は天正19年(1591)に京都(下京区堀川、現西本願寺)へ転出します。本願寺が京都へ移転した後の土地利用の詳細は分かっていませんが、徳川期には川崎東照宮(※5)や町奉行与力屋敷などに利用されています。
このことから比較的大きな街区や町割が踏襲されていたと考えられています。この街区の一部が、明治4年(1871)に操業が始まる造幣局の敷地へと引き継がれることとなります。
ところで、本願寺に関連する施設かどうかは分かりませんが、本願寺推定地に接するように、大規模な屋敷跡が発掘調査で見つかっています。
写真1.調査地7の豊臣期の遺構全景(西から)
堤の東側で、川岸に接し、明治23年(1890)刊行の『大阪実測図』に大川に繋がる船入が描かれている場所の南に位置します(図1-7〜10)。発掘調査では南北2区画の屋敷地が見つかっています。二つの区画の間は当初大きな溝で区切られていますが、ある時期この溝が埋められ道路に造り替えられています。
南側の敷地では溝に沿った長さ30m以上の細長い建物が見つかっています(写真1)。また、いずれの屋敷地も川に面する東側に石垣を築き、南側の屋敷地では川側から敷地に入るスロープと門跡が発見されています(写真2)。
スロープの東側は大川との間の通路となりますが、何度か水に浸かったらしく砂で埋まった下駄の歯跡が多数発見されています。図2は本願寺と川縁の屋敷が共存して存在している豊臣期の天満の状況を復元したイラストです。
写真2.調査地8の屋敷地とスロープ(北から)
図2.天満本願寺と堤東側の屋敷推定図
本願寺が京都へ転出した後の天満本願寺跡地と寺内町の様子を具体的に示す調査例は多くはありません。しかし、寺内町の地域では豊臣期を通して遺構が確認されており、本願寺転出後も城下町として繁栄したと考えられます。慶長3年(1598)には天満堀川が掘削され、天満堀川以東が天満城下町として囲いこまれます(※6)。本願寺の誘致から転出という変遷はありますが、現在残る天満の町割は豊臣期にその基礎が築かれたのです。
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