平成19年(2007)に宇治川に架かる「宇治橋」から400mほど下流の宇治川右岸で石を貼った大規模な堤防が見つかりました。秀吉が築いた「太閤堤」として大きく報道されましたので、ご存知の方も多いのではないでしょうか。遺跡は平成21年に国の史跡に指定され、現在公開に向けた整備が進められているようです。
宇治市教育委員会発行の『宇治川太閤堤跡』によれば、文禄2年(1593)の秀吉の隠居城である指月城の拡張と城下町の建設に合わせて築かれたとされています(※1)。堤防の築造時期が秀吉の時代まで遡るものという確証は見つかっていないようですが、堤防遺構の残りの良さは純粋に見ごたえがあり、当時の土木技術や、豊臣政権の権力の大きさが遺構を通して体感できる遺跡だと思います。
ところで、秀吉が行なった堤防の工事としては、文禄2年から同5年にかけて行なわれた「文禄堤」(※2)がよく知られています。枚方市域の文禄堤については(財)枚方市文化財研究調査会の発掘調査によって堤の本体と、補修工事の痕跡、堤の上を通る道路の跡や、文禄堤に沿って築かれた豊臣期から徳川期にかけての町屋の遺構も見つかっています(※3)。また、京阪電車守口駅近くには文禄堤の高まりが現在も残されており、大阪市域でも宇治川や枚方市で見つかった堤の遺構がいつか見つかるのではないかと思っていました。
図1.調査地位置図(「マップナビおおさか」に加筆)
宇治川で「太閤堤」の遺構が発見された翌年の平成20年(2008)、北区天満1丁目にある「泉布観」敷地内から秀吉時代の大規模な堤防が見つかりました(図1・2)。
調査面積は50㎡と狭く、堤の基底部分までは確認されていません。石貼りなどの遺構も見つかっていませんが、大規模な堤防とそれを埋めた徳川期の地層が見つかったのです。
調査を担当した公益財団法人大阪市博物館協会大阪文化財研究所の南秀雄さんの報告によれば、豊臣期の盛土と考えられる地層は大きく2層に分けられ、先に盛られたA層は大川に向かって傾斜するように盛られ、次に盛られたB層はA層でできた傾斜にもたせ掛けるように土が積まれています(図2、写真1)。
図2.調査地1で見つかった豊臣期の堤遺構の位置と断面
推定される堤の規模は天場が約7m、基底部の幅は20〜25mあります。築かれた時期は、秀吉が本願寺を誘致し、天満を開発する天正14年(1586)ではないかと想定されています(※4)。この堤の痕跡は、江戸時代の絵図にも描かれており、明治19年(1886)測量の地図にも堤防の痕跡が残っています。
現在でも国道1号線を天満方面から桜宮橋に向かって歩きますと、北稜中学校の南の辺りから桜宮橋に向け徐々に地表が高くなり、1m程の高低差があることが分かります。
この高まりが豊臣期に築かれた堤の名残であり、当時、天満の町から堤防を見ると見上げるほど高かった部分もあったことが予想されるのです。
その後の調査でも大川右岸で堤防跡が見つかっています。調査地1から100mほど北の地点と、泉布観の位置から北西に800mほど離れた天満橋2丁目の調査地2の地点です(図1、写真3)。
調査地2で見つかった堤防の幅は少なくとも15m以上を測り、さらに大きかったと考えられています。堤の築造時期は確定できていませんが、江戸時代の絵図の検討から徳川期になって築かれた可能性も考えられるとされています(※5)。
これまで発見された堤防の痕跡は、いずれも大川右岸の調査で見つかっています。豊臣政権の城下町建設に当たって開発された船場や天満などの低地の開発には河川の制御が大きな課題であったはずです。
今後、宇治川で見つかった石貼りの立派な堤が大阪のどこかで発見されることも、十分想定できるのではないでしょうか。
写真1.調査地1堤の断面(北東から)
写真2.調査地1堤の断面(西から)
写真3.調査地2堤の断面(東から)
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