太閤秀吉が築いた初代大坂城の石垣を発掘・公開への取り組みと募金案内。

豊臣石垣コラム

豊臣時代大坂の出土銭

10月31日と11月1日の2日間、「天守閣の秋祭り」に合わせて実行委員会では発掘調査の現地公開、金箔瓦の展示と古銭の拓本体験を行いました。体験に使った銭貨は個人からお借りした政和通寶、祥符元寶(以上北宋銭)、洪武通寶、永樂通寶(以上明銭)の4種の中国銭(写真1)と、江戸時代の寛永通寶2種(写真2)、そして出土品から製作した慶長丁銀(※1)のレプリカ(写真3)と和同開珎のレプリカ、実行委員会で製作している記念メダル「太閤通寶」を用意しました。

拓本体験には秀吉の時代に作られた貨幣を使いたかったのですが、天正通寶(※2)や天正大判などの本物は当然のことながら、レプリカも準備できず、それなら秀吉の時代に実際に使われていた銭貨と同じ種類の銭貨の拓本を体験していただこうということで、中国の銭貨を準備しました。そこで、今回は、豊臣時代にどのような銭貨が使われていたのか、豊臣時代の大坂の出土銭について紹介したいと思います。

ところで、遺跡の発掘をしていますと、挨拶がわりに「小判でまっか?」と声をかけられることがよくあります。残念ながら、筆者は戎神社の笹飾りの小判を掘り出したことはあるのですが、本物の小判を掘り出したことはありません。というより、私達が豊臣時代と呼んでいる天正11年(1583)から慶長20年(1615)にかけての遺構や地層から出土する貨幣のほとんどは、中国から輸入された渡来銭(銅銭)です。特に中国の北宋の時代に鋳造された銭貨がほとんどで、少量の明代の銭貨やベトナム、朝鮮、琉球の銭貨が出土します。銭種は50種類を超えています。初鋳年が最も古いものは唐の開元通寶(621年初鋳)で、最も新しいものは明の洪徳通寶(1470年初鋳)です。約50種の銭種の中でも出土数の多いものと少ないものがあります。

写真1.体験に使った中国の銭貨(個人蔵)

写真1.体験に使った中国の銭貨(個人蔵)

上段左の政和通寶の直径約2.4cm

写真2.体験に使った寛永通寶(個人蔵)

写真2.体験に使った寛永通寶(個人蔵)

左の直径約2.8cm、左は1枚で4文の価値をもった4文銭で
通常より大きい、右は寛文8年(1668)発行

写真3.出土した慶長丁銀のレプリカ

写真3.出土した慶長丁銀のレプリカ

長さ約9.8cm

表1は大坂城の三ノ丸と惣構内の複数の調査地点から出土した約1300点(銭種不明を除く)の銭種を出土数が多い順に20位まで並べ、合わせて全国的な順位を示したものです。大坂で12位となる永樂通寶が全国的には6位に入っています。また大坂で10位の治平元寶は全国では17位、12位の祥符通寶が18位と、大坂の出土状況と全国の出土状況で差が目立つものもありますが、20位までの銭種はまったく同じです。

東海地方以東では永樂通寶が他の銭種に比較して重視されていたことが知られていますが、大坂では、永樂通寶の出土傾向が他の銭種と大きく変わらないという、これまでの説を裏付けているといえるでしょう。また、1枚だけですが、琉球の銭貨である世高通寶(※3)が出土しているほか、銭種が不明なものが732点あります。

表2は、三ノ丸内の調査地点から424枚の銅銭が埋納された箱からまとまって出土した事例の銭種と出土数をまとめたものです。表1で10位までを占めた銭種と比較しますと12位だった祥符通寶が8位に入り、10位だった治平元寶が15位となっていますが、それ以外の9種の銭種は共通しています。ただ、埋納銭貨の方は開元通寶が68枚とひときわ多く、意図しているかどうかは別として個人によって集めた銭種の比率が異なっていたことがわかります。また、1枚ですが朝鮮通寶が出土しています。

表3は船場(城下町)の調査で出土した銭貨の一覧です。徳川期の寛永通寶や奈良から平安時代の皇朝十二銭を除く銅銭2,189点のうち、銭種が判明するものを出土数が多い順に並べたものです。ベスト10は三ノ丸・惣構地域のベスト10とほとんど同じです。また、三ノ丸・惣構発見の埋納銭貨と比較すると、船場出土では9位に祥符元寶が入り、埋納銭貨では8位に祥符通寶が入っています。

表1.豊臣時代三ノ丸・惣構内出土の銭貨ランキング

表1.豊臣時代三ノ丸・惣構内出土の銭貨ランキング

(財)大阪市文化財協会2002『大坂城跡』Ⅵより作成、全国順位は鈴木公男2002『銭の考古学』吉川弘文館から引用

表4は大手前4丁目の府警本部地点の調査で出土した銭貨の一覧です。平成26年12月に本コラムで取り上げた堀の部分ではなく、居住域に当たる地点の出土品です。この資料で注目されるのは3番目に多い銭種が無文銭であることです。また、出土銭貨個々の計測や観察から銭種の判明する44種553点のうちの約1/3が模鋳銭と考えられるということが報告されています。銭貨を摸鋳した事例で時期的にも地域的にも近いのは、16世紀後半の堺環濠都市遺跡の例があります(※4)。表4の銭種の横に●を付けた銭貨は、堺環濠都市遺跡から鋳型が出土している銭種です。出土数の多い銭種と摸鋳された銭種が共通していることがわかります。表1から表3で取り上げた地点の銭貨に摸鋳銭が含まれているかどうかは検討されていませんが、豊臣時代の銭貨の中に多数の摸鋳銭が含まれていた可能性は高いといえるでしょう。

江戸時代になると、幕府によって貨幣制度が整えられ、金・銀・銭(銅)の3種類の貨幣、三貨が併用されるようになります。しかし、金貨・銀貨が慶長年間に発行されたのに対し、銅銭は寛永13年(1636)に寛永通寶が発行されるまで国産化が遅れます。銅銭は庶民の貨幣として広く流通しましたが、江戸時代の経済の主役は金貨・銀貨に代わられていくのです。

出土した銭貨から豊臣時代大坂の貨幣事情のごく一端を紹介しました。考古学的な貨幣の研究については鈴木公男氏の『銭の考古学』(2002年、吉川弘文館)貨幣の歴史全般については東野治之氏の『貨幣の日本史』(1997年、朝日選書)を参照させていただきました。

※1.慶長丁銀(けいちょうちょうぎん):徳川幕府の銀貨で、銀座の大黒家が製作した。初代、大黒常是(じょうぜ)は堺の人で、丁銀には「寶常是」の文字と「大黒」像のデザインが刻印されている。秤量(ひょうりょう)貨幣であり、出土品のなかには切り取られた状態で出土したものがある。

※2.天正通寶(てんしょうつうほう):豊臣秀吉が家臣への賞賜用に作成したという銭貨。金製と銀製があり、貨幣としては流通していない。

※3.世高通寶(せこうつうほう):1461年初鋳の琉球王朝の銭貨。

※4.堺環濠都市遺跡の摸鋳銭については、嶋谷和彦「中世・堺で生産された銭」『古代史の論点』第3巻(都市と工業と流通)小学館などに、詳しく紹介されている。

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