太閤秀吉が築いた初代大坂城の石垣を発掘・公開への取り組みと募金案内。

豊臣石垣コラム

「茶臼山」こぼれ話

先月号では天王寺公園内の茶臼山に、大坂冬ノ陣で築かれた徳川家康本陣の遺構が非常によく残っていることを紹介しました。この時の発掘調査は「前方後円墳」とされていた「後円部」で行っていますが、平成11年(1999)に「前方部」に当たる部分が発掘調査されています。この時の成果については調査を担当した(財)大阪市文化財協会(現、公益財団法人大阪市博物館協会 大阪文化財研究所)の黒田慶一さんによって紹介されています(黒田慶一1999「茶臼山古墳その後」『葦火』81号)。

今回は、「前方部」の調査で何が分かったのかなど、茶臼山に関るこぼれ話を紹介したいと思います。

図1.平成11年調査の位置

図1.平成11年調査の位置

(昭和61年調査の図面に平成11年の調査地を加筆)

写真1.「前方部」で見つかった井戸(東から)

写真1.「前方部」で見つかった井戸(東から)

調査地奥に見える小山が茶臼山、その奥に通天閣が見える
(公財)大阪市博物館協会、大阪文化財研究所提供

平成11年の発掘調査は、想定では前方部の端と堀が見つかるのではないかと考えられていましたが、古墳に伴う遺構や遺物はまったく出土しませんでした。見つかったのは12世紀から16世紀にかけて、約400年の間に掘られた20基の井戸でした(写真1)。このことから、推定されていた古墳の堀が想定の位置にないことは明らかです。また、盛土は認められていませんので、墳丘が削られたというより存在しなかった可能性のほうが高いと思われました。このように、古墳については推定されるような前方後円墳ではなかった可能性が非常に大きくなりました。

それでは家康本陣について、この調査で何が分かったのでしょうか。先月号で紹介した浅野文庫所蔵の「摂津茶臼山御陣城図」には家康の寝所がある築山の東側に土橋で繋がる隅丸長方形の曲輪が描かれていますが、平成11年の調査では家康の本陣に関係する遺構もまったく見つかっていません。このことは、本陣の位置が平成11年の調査地より西側にあることを示しています。「摂津茶臼山御陣城図」には東側の曲輪の上に「此曲輪平地 南北三十八間 東西十三間」と書かれています(図2)。1間を6尺5寸と考えますと、東側の曲輪は南北約75m、東西約26mとなります。復元図でも本陣の範囲は平成11年の調査地点まで広がらない範囲に収まるように想定されており(図3)、復元図が実態に近かったと考えられるのです。

写真2.茶臼山全景、河底池に架かる橋は和気橋(南西から)

写真2.茶臼山全景、河底池に架かる橋は和気橋(南西から)

(公財)大阪市博物館協会、大阪文化財研究所提供

「摂津茶臼山御陣城図」を見ますと、本陣の堀の北側に彎曲する道が描かれ、その奥に一心寺(※1)が描かれています。調査地点を東から撮影した写真1でも、茶臼山の敷地に沿って道があり、その奥に一心寺の甍が写っています。一心寺は第二次大戦の空襲で伽藍が焼失し、建て替えられていますが場所は動いておらず、茶臼山一帯が今も400年前の姿をよくとどめていることがわかるのです。

それでは、発掘調査で発見された井戸についてはどのように考えることができるのでしょうか。400年以上にわたり同じ場所に井戸が次々と掘られることは非常に珍しいことです。近辺に、長く人が住み続けた住居があり、飲料に適した水が湧く場所であったのでしょう。黒田さんは、調査地点が四天王寺に近く四天王寺の門前町として繁栄していた姿を想定しています。

江戸時代の話ではありますが、船場などの井戸水は塩分が多く飲料水に適さず、淀川の水が飲料水として販売されていました。これに比べ、上町台地上には非常によい水が出る井戸がありました。なかでも「天王寺七名水」(※2)はとくに有名ですが、これらは調査地点の近辺に分布しています。調査で見つかった井戸はこのような地理的、歴史的な背景を物語るものであるといえるのでしょう。

図2.「摂津茶臼山御陣城図」部分

図2.「摂津茶臼山御陣城図」部分

『浅野文庫所蔵 諸国古城之図』より 広島市立中央図書館所蔵

さて、茶臼山本陣が描かれている絵図のなかで最も有名なのは『大坂冬の陣図屏風』(図4)でしょう。右端に描かれた望楼のある建物が本陣中央の曲輪内の高まりに建てられた家康の居所、その左、一段下がったところに描かれているのが中央の曲輪の平坦部、その左側、画面の端に少しだけ見えている水色の部分が西側の曲輪との間の堀の一部だと考えられます。中央の曲輪の平坦部から家康の居所に向かって坂を登っていく武士が描かれています。坂の上には簡素な門が造られ、門の左右は塀か土塁ではないかと思われます。門の中には刎ねられた首が置かれており、この屏風は下絵なのでその姿は描かれていませんが完成した屏風(所在不明)には家康が首実検をしている様子が描かれているといわれています。

図3.「大坂冬の陣図屏風」に描かれた範囲の推定

図3.「大坂冬の陣図屏風」に描かれた範囲の推定

復元図は、趙哲済1986「「茶臼山古墳」の調査」『葦火』第4号より

残念ながら本陣の曲輪全体が描かれてはいませんが、冬の陣図屏風に描かれた本陣の姿を浅野文庫の『攝津茶臼山御陣城図』と照合することで、家康本陣の姿を想起することが可能です。家康は本陣の出来栄えにことのほか満悦であったといわれていますが、戦地の陣地が予想以上に本格的であることに驚かされるのです。

「摂津茶臼山御陣城図」の掲載に当たりましては広島市立中央図書館より掲載許可をいただきました。記してお礼申し上げます。

図4.大坂冬の陣図屏風に描かれた茶臼山本陣

図4.大坂冬の陣図屏風に描かれた茶臼山本陣

本陣中央の曲輪と西側の曲輪の一部が描かれている。奥にあるのは四天王寺西門。 (東京国立博物館所蔵

※1.一心寺(いっしんじ)
文治(ぶんじ)元年(1185)、四天王寺別当(べっとう)、慈円(じえん)が草庵をつくったのが最初という浄土宗の寺院。全国から納骨が多く、その遺骨でつくった阿弥陀仏(骨仏(こつぶつ))が安置されている。また、『攝津茶臼山御陣城図』に記される本多忠朝(ただとも)石塚とは、夏ノ陣で戦死した徳川方の武将の墓。家康の重臣本多忠勝の次男で、大坂冬ノ陣で合戦前に酒を飲みすぎて失敗したことを家康に叱責され、夏ノ陣で汚名返上のため奮戦して戦死した。境内にある墓に断酒の願をかけると酒の悪癖に霊験があるという。

※2.天王寺七名水(てんのうじななめいすい)金龍、有栖、増井、安井、玉手、亀井、逢坂の七つの井戸を指す。

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