豊臣石垣コラム Vol.19

発掘された茶臼山本陣跡

来年、2016年のNHK大河ドラマは「真田丸」となりました。ご存知のように、真田幸村が大坂冬ノ陣に備えて築いた出丸が真田丸です。大河ドラマでは毎回番組の終了時に流される「○○紀行」がありますが、「真田丸」のなかでは大阪の身近な史跡や「豊臣石垣公開プロジェクト」のことが取り上げられるのではないかと勝手に想像し、今から期待しています。

大阪城が位置する上町台地周辺には大坂ノ陣に関わりのある史跡がいくつも残されています。その中でも天王寺公園の中にある茶臼山は最も有名な一つといえるでしょう。大阪の歴史に詳しい方は「茶臼山」というと、市内では珍しい水堀を伴った前方後円墳として、大阪府の史跡となっていることをご存知だろうと思います(図1)。あるいは、このコラムを見ていただいている方は、大坂冬ノ陣で徳川家康が本陣を構えた場所であったことをご存知の方もおられるでしょう。さらに大坂夏ノ陣の時に真田幸村が陣を構え、徳川方と奮戦した場所でもありました。

茶臼山

茶臼山

図1.梅原末治1932『大阪府史蹟名勝天然記念物調査報告』第3号に基づき復元された茶臼山古墳(黒塗りは調査トレンチ)

図1.梅原末治1932『大阪府史蹟名勝天然記念物調査報告』第3号に基づき復元された茶臼山古墳(黒塗りは調査トレンチ)

趙哲済1986「「茶臼山古墳」の調査」『葦火』第4号より、(図面はいずれも同文献より)

図2.茶臼山上層で発見された遺構

図2.茶臼山上層で発見された遺構

1:瓦溜り 2:瓦敷 3:方形凹地 4:瓦敷 5:竈(かまど)  6:瓦敷 7:礎石建物 8:土橋 9:掘割り 10:石垣状遺構 11:凝灰岩切石

この茶臼山が昭和61年(1986)に古墳の確認調査のため発掘されました。調査地は、墳頂部や墳裾部など、墳丘全体を明らかにするように設定されました(図2)。この時の調査成果については調査を行った(財)大阪市文化財協会(現公益財団法人大阪市博物館協会、大阪文化財研究所)の趙哲済さんによって紹介されています(「「茶臼山古墳」の発掘調査」大阪市文化財情報『葦火』第4号、1986年)。それによりながら茶臼山で見つかった大坂ノ陣の遺構について紹介しましょう。

発掘調査を行う前には古墳に関する遺構や遺物が発見されると考えられていたのですが、予想に反し発掘した範囲では古墳時代の遺構や遺物はまったく出土しませんでした。その代わり、北西裾部で瓦を敷いた建物跡(図2-7)や竈(かまど、図2-5)などが見つかりました。また、東裾部では狭い土橋(図2-8)を挟んで幅10m、深さ5mを越える大規模な掘り割(図2-9)が見つかっています。北西裾部で発見された遺構に伴い金箔を貼った土師器皿(写真3)や携帯用と考えられる小さな硯などが見つかっています。

ところで、徳川家康の伝記である『武徳編年集成』(※1)に茶臼山におかれた家康本陣のことが詳しく記録されています。それによりますと、「山頂狭小にして近臣のほか居るべき地なく、……ご寝所は絶頂にして南北十二畳の外、三間に一間の庇ありて五尺の椽を附る。西の麓に四畳半の茶亭、南の麓に二間四方の納戸、東向に二間四方の浴室を建べし、東の麓に二十畳の一室、是近臣の席とすべし、北の麓に庖厨を設け、惣台盤所は乾堀の外たるべし、……」と書かれています。

北西裾部で見つかった遺構は、「北の麓に庖厨を設け」という記事と合致します。全面発掘はされていませんが、発掘すれば「寝所」や「茶室」が確認されるのではないでしょうか。ところで、家康本陣の建設に当たっては「豊臣時代の大坂城本丸図」を所蔵していたことで有名な中井正清配下の大工が5日間で建設したことが明らかにされています(※2)。

この徳川家康が築いた茶臼山本陣の図が先月にも紹介した広島市立中央図書館に所蔵されている『浅野文庫所蔵 諸国古城之図』に「攝津茶臼山御陣城図」として収められています(図3)。絵図には、四天王寺の五重塔や一心寺が描かれ、東側には「阿部野海道」と記された街道が描かれています。四天王寺西門に通じる東西道路の北側に書かれた「天神」とは安井神社のことで、「真田幸村戦死跡」の碑や銅像も建立されている所です。

趙さんはこの図を参考にして、発見された遺構から家康本陣の復元案を示されています(図4)。茶臼山の現在の姿は古墳の姿を残しているというより、400年前の家康本陣後の姿を今に伝えているといえるのです。とはいえ、家康本陣の下にはさらに古い時代の地層があり、家康本陣以前に人工の築山として存在したことは間違いありません。

図3.「摂津茶臼山御陣城図」『浅野文庫所蔵 諸国古城之図』より

図3.「摂津茶臼山御陣城図」『浅野文庫所蔵 諸国古城之図』より

広島市立中央図書館所蔵

また、逆に大坂ノ陣後に改変されたものとして、現在は茶臼山を取り囲むようにある河底池があります。茶臼山を巡るような堀は家康本陣があった時にはありませんでした。「攝津茶臼山御陣城図」にはクラゲのような形をした池が本陣の南側に描かれています。復元では現在の河底池の中に納まるように復元されており(図4)、現在のような河底池となったのは18世紀後半と推定されています。

その後も、明治36年(1903)に開催された第5回内国勧業博覧会においてアトラクションの目玉であったウォーターシュートで河底池が使われるなど、茶臼山は古代から現代に至るまで大阪の歴史の表舞台に登場し続けた史跡ということができるのです。

「摂津茶臼山御陣城図」の掲載に当たりましては広島市立中央図書館より掲載許可をいただきました。記してお礼申し上げます。

図4.茶臼山本陣復元図

図4.茶臼山本陣復元図

趙哲済1986、前掲書より

※1:元文5年(1740)に幕臣木村高敦によって書かれた徳川家康の伝記。

※2:大阪市立住まいのミュージアム2015『天下人の城大工中井大和守の仕事Ⅲ』、9p

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