写真1.金箔三巴文軒丸瓦
写真2.金箔菊唐草文軒平瓦
3月に行った現地公開では昭和59・60年の調査で出土した金箔瓦と陶磁器を展示しました。豊臣大坂城の本丸のようすを描いた『大坂城図屏風』や『大坂夏の陣図屏風』では天守の瓦が金色に描かれ、金箔瓦を葺いていたことが描かれています。現在の本丸地下には豊臣期の天守や御殿に葺かれていた金箔瓦が大量に埋められていることは間違いないでしょう。しかし、本丸内の調査が進んでいないこともあり、豊臣期の天守や御殿で使われた金箔瓦のことはよくわかっていません。現地公開で展示した金箔瓦は、本丸で使われていたことが明らかな貴重な資料なのです。
豊臣期大坂城では金箔瓦は本丸だけでなく三ノ丸や惣構内からもたくさん出土しています。本丸や二の丸といった城の中心部から離れた場所でも井桁文や橘文、沢瀉文、桔梗文といった家紋と考えられる金箔瓦が出土しているのです(写真3)。これらは本丸周辺にあった大名屋敷に使われていたと考えられ、豊臣時代の大坂城と城下町は秀吉の権勢と栄華を誇示するように絢爛豪華であったことがわかります。
金箔瓦は織田信長が初めて使ったと考えられています。しかし、信長時代の金箔瓦が出土しているのは安土城や岐阜城など、信長の居城や一族の城など、ごく限られた城でしか見つかっていません。ところが秀吉の時代になると大坂城や聚楽第、伏見城など秀吉の居城だけでなく、大坂や京・伏見におかれた大名屋敷や大名の領地の城など、金箔瓦の出土する範囲は飛躍的に広がっています。
また、徳川政権下の江戸・前田家下屋敷でも金箔の梅鉢文軒丸瓦がまとまって出土し、将軍が大名の私邸を訪れる「御成り」と関係すると考えられており、金箔瓦の使用が豊臣時代までに限られたものでもなかったことも明らかとなっています。
現地公開では金箔瓦と共に、夏ノ陣の火災によって焼けひずんだ陶磁器を展示しました。焼物が熱によってひずんだり、くっついたりする温度は、1200度を超えると考えられますので、大坂夏ノ陣で焼けた本丸の火災のすごさがわかります。
展示した焼物はいずれも中国の明朝末期に景徳鎮で焼かれた染付で、器の厚さが2㎜ほどの非常に薄く作られた焼物です。碗と皿がありますが、型を使って器を花形に成形し、そこに文様が描かれ、上からみると蓮の花のように見えることから陶磁器の用語で「芙蓉手」とよばれています。文様は縦線によっていくつかに分割され、そこに花や宝物、動物などの絵を繰り返し描いています。写真5に示した碗では口の部分には八つの小さな突起が作りだされています。大坂では1615年の夏ノ陣の頃の遺構や地層から出土する特徴があります。文様は繊細で青色の発色もよい高級品と言ってよいものです。
ところで、1613年にセントヘレナ島沖で沈没したオランダ東インド会社(※)のヴィッテ・レーウ号から大量の芙蓉手の焼物が引き揚げられています。同種の焼物はヨーロッパで伝世されたものも多く、ヨーロッパ向けに生産された焼物と考えられています。
詰ノ丸から出土した細かく焼けひずんだ染付は、秀頼や淀殿など詰ノ丸に住んだ人たちが、流行の先端であった焼物を使っていたことを知ることができる貴重な資料といえるのです。
※オランダ東インド会社
1602年にオランダで設立され、アジアでの交易や植民に従事した。香辛料が主要な貿易品であったが、陶磁器も重要な貿易品であった。積み荷の陶磁器が船のバラストの役割を果たしたと考えられている。
写真3.谷町3丁目で出土した金箔瓦(参考資料)
写真4.詰ノ丸から出土した中国製染付
写真5.大坂城下町跡から出土した「芙蓉手」碗(参考資料)
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