前回のコラムで南外堀々底から見つかった石列が豊臣期にさかのぼる可能性があることを紹介しました。では、この石列が推定通り豊臣期の遺構であったとすると、豊臣大坂城のどの部分にあたる遺構と考えることができるのでしょうか。
中村博司さんは著書『天下人の城 大坂城』の中で「豊臣時代の二之丸南面堀石垣の残骸」ではないかとしています。前回紹介した志村清さんは二の丸南面の石垣という点では同じですが、石垣本体は発見された石列と現二の丸石垣との間にあり、石列は石垣前面にあった犬走り(※1)のような石積みの基礎ではないかと考えておられたようです。
いずれにしても、お二人の想定通りなら豊臣期の二の丸石垣の20mほど内側に徳川期の二の丸石垣が築かれたということになります。石列が水没した今となっては、石列を再び露出させて確認を行うことができませんが、豊臣大坂城の規模を検討する上で重要な資料となるでしょう。
ところで、志村さんから色々な話をお聞きする中で、「発掘された南外堀の石列だけでなく、水が涸れた時に二の丸石垣沿いで高くなっていた部分は豊臣時代の二の丸南の堀の痕跡ではないかと思う。」という興味深い話をお聞きしました。それをきっかけとして、外堀が干上がった昭和30年代から40年代にかけての外堀のことを当時の新聞記事などから少し調べてみました。「大坂城総合学術調査団」発足について大きく報じた昭和34年3月13日の読売新聞の記事によりますと、「大坂城総合学術調査」の調査目的が「干上がった堀の原因究明と大坂城にかかる幾多のナゾを解明する」ことにあることが書かれています。
外堀の減水については、昭和31年頃から始まり、最も減水が著しいのが西外堀であり、昭和33年末には大手橋付近から京橋口までがほとんど干上がってしまったことが書かれています。
写真1.現二の丸石垣と石列の関係
そして「大手門左下」(大手土橋北側、筆者注)の堀底に「第二の石垣」が現れ、調査対象になるだろうと書かれていました。堀底の石垣について記事を引用させていただくと、
「濠底にあらわれた新しい石垣=大手門左下に二段構えになった石垣があらわれた。きれいに二段構えに築かれており、用途は濠底だけに全くわからない。石垣が崩れ落ちたあととも推定されるが、歴史上の記録にもないので調査の対象になろう。」
と書かれています。
渡辺武さんの著書『再見大阪城』に大坂城総合学術調査で西外堀でも調査が行われたことが書かれています。この調査では堀が総石貼りではなかったことが明らかになったことが書かれていますが、新聞記事にある「第二の石垣」との関係については触れられていません。
新聞に掲載された写真を見ると、千貫櫓下には石垣と平行するように水際のラインが見え、そのラインの下方、西外堀外側の石垣下に崩れた石垣のように見える石が写っています。
筆者は、新聞記事と写真を見て千貫櫓下の水際ラインに石列があったのではないかと考えたのですが、志村さんにお聞きすると「千貫櫓の下には石垣があった記憶はなく、外堀西側の石垣下に崩れた石垣の跡があった。」とのことでした。徳川期の石垣築造によっていったん完成した石垣が崩壊した痕跡は南外堀でも確認されており(写真2・3、※2)、その存在はよく知られています。
このように、大手土橋北側の西外堀々底の石垣は建設途中の徳川期の石垣が崩壊した痕跡ではないかと考えられるようになりました。西外堀の「第二の石垣」は残念ながら豊臣時代の大坂城の痕跡ではなく、その他には堀底の石垣や石列のことを書いた記事を見つけることができませんでした。
志村さんが言われる、「二の丸側の水際あたり」がどのようなラインを示すのかを確認するために、昭和39年と昭和45年撮影の航空写真を見てみました。
写真2.南外堀々底に残る徳川期石垣崩壊の痕跡
写真3.昭和39年撮影大阪城航空写真
昭和39年の写真では現在の二の丸石垣にほぼ沿う形で水際ラインが観察できます(写真3、青ライン)。一方、昭和45年撮影の航空写真を見ますと西外堀には水が満たされ、南外堀は水がさらに後退し、二の丸石垣と水際の輪郭との関係が不明確になっています(写真4)。志村さんが豊臣期の石垣ラインではないかとイメージしておられるのは、昭和39年撮影の水際ラインに近いものだと考えられます。
ただ、前号で紹介しました南外堀の発掘調査で明らかなように、二の丸石垣際から約9mの幅で徳川期の石垣を築くための遺構が見つかっています。石垣際の高まりがこの徳川期の石垣築造に伴ってできた高まりである可能性は十分ありますので、一律に豊臣期の大坂城と結びつけることは勿論できません。しかし、前回から見てきましたように、徳川期大坂城の堀底に残る痕跡が、豊臣期の二の丸石垣を示しているのでは、という志村さんの推測も十分可能性のあるお話なのではないかと思われます。
二番櫓の下で見つかった石列の延長がどこまで伸びていくのか、同じような石列遺構が二番櫓の下以外でも認められているのかなど、興味は尽きません。新たな資料の発掘によって検討することができれば、豊臣期大坂城の研究が大きく前進するのではないかと期待されます。そして、一度堀底の状況をこの目で見てみたいと思うのは、私だけではないのではないでしょうか。
写真4.昭和45年撮影大阪城航空写真
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