現在の天守閣が建っている天守台から南に45mの場所に直径2m、高さ70cmほどのコンクリートの筒があります。いつもは鉄板の蓋がかぶっていて、昔からの井戸と思われている方も多いのではないでしょうか。
大阪城に詳しい方はこのコンクリートの筒が昭和34年に大阪城で初めて見つかった地下石垣を保存している「井戸」であることをご存知でしょう。当時は、豊臣時代のものと確定するまでには至らず、「謎の石垣」として話題になりました。
平成25年11月2日〜4日、この井戸に保存されている豊臣時代の石垣を公開しました。3個のランタンの灯によって照らし、じっとのぞきこんで目をこらすと、地下約7mの位置にある石垣がようやく見えてきます。見学された方は、「太閤さんの大坂城は深いところにあるんやなぁ」「これが大坂城の抜け穴につながっとるんやろ、三光神社(※)に抜け穴があるやろ」という声が驚くほど多くありました。
大阪城から三光神社に抜け穴があるかどうかは分かりませんが、どうして地下7mに石垣があるのでしょう。
昭和34年発見の石垣が保存された「井戸」外観
昭和34年発掘時の石垣
見学用に保存された石垣
豊臣時代の大坂城本丸は「詰ノ丸」「中ノ段」「下ノ段」の三段構造であったと考えられています。昭和34年に発見された石垣は、石垣上端が「中ノ段」の地面で、そこから「下ノ段」の地面へと繋がる石垣と考えられています。したがって、豊臣時代の「中ノ段」の地面が現在の地面から7m下にあることになるのです。
また、今回公開しようとしている昭和59年に発見された石垣は、昭和34年に発見された石垣より一段上の「中ノ段」と「詰ノ丸」の間に築かれた石垣と考えられています。昭和59年に発見された石垣も地下約7mに石垣を築いた地面があり、そこから高さ約6mの石垣が築かれています。2つの地下石垣は約100m離れていますが、「中ノ段」から立ち上がった昭和59年発見の石垣と、「下ノ段」から立ち上がった昭和34年に発見された石垣は、つながっていることになるのです。
昭和59年に発見された石垣の上端は、豊臣時代の「詰ノ丸」の地面となりますが、この高さは徳川時代の本丸の地面の高さとほとんど変わりません。言い換えれば、徳川幕府の大坂城再築工事においては、三段に築造された豊臣期大坂城のもっとも高い位置にあった「詰ノ丸」の高さにあわせて本丸全体をかさ上げする造成が行われたといえるのです。
豊臣石垣公開予定地は、豊臣大坂城の中でも中枢を占めた「詰ノ丸」を支えていた石垣にあたります。厚い盛土に覆われた豊臣大坂城のごく一部分ではありますが、徳川大坂城との違いを体感し、豊臣大坂城の全体像をイメージしていただけることを目指したいと思います。
宮上茂隆氏復元図における地下石垣の位置
豊臣期石垣の断面模式図
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