11月のコラムで紹介した発掘調査では、徳川期大坂城の石列のほか、瓦を捨てたごみ穴(=瓦溜まり)が多数見つかりました(写真1)。当時の人びとにしてみればまさに「瓦礫」だったのでしょうが、現代の私たちにとっては、大坂城の歴史を知るためのかけがえのない「資料」です。
瓦は膨大な量が見つかったためまだ整理途中ですが、今回は、その中でもとくに重要と思われる成果を紹介します。
ひとくちに瓦といっても屋根を隙間無く覆って雨水を防ぐだけでなく、建物を立派にみせるため、さまざまな形の瓦が作られます。今回見つかった瓦には、1棟に数個しか用いられない鬼瓦から、多量に葺かれる平瓦・丸瓦まで、多くの種類が含まれていました。現存する金蔵の建設にあたってはそれまでに存在した建物を改造したことが知られていますから、こうした周辺の建物の改造に伴って、不要になった瓦が捨てられたものと考えられます。
さて、今回のコラムでは、見つかった瓦の中でもひときわ目を引く、三葉葵(みつばあおい)をあしらった大きな鬼瓦を紹介したいと思います(写真2)。残存する高さは81cm、幅は92cmもあり、一人では持ち上げられないほどの重さです。三葉葵は「水戸黄門」でお馴染み、言わずと知れた徳川家の家紋です。江戸時代の経済的な中心地であった大坂の象徴であり、また江戸幕府が西国支配の拠点と位置づけた大坂城には、将軍の城であることを示すために三葉葵紋の鬼瓦が飾られていたのです。
ただここで問題となるのは、この瓦がいつ作られ、どの建物に葺かれていたのかということです。参考となる史料が、大阪市の願生寺に伝わっています(図)。
この図面は、万治3(1660)年に火薬庫の爆発で被害を受けた天守を修築するために作製されたものと考えられています。何枚かの図面が伝わっていますが、その中で天守の大棟を描いたと考えられるものを掲載しました。
図面に描かれた鬼瓦と実際の資料を比べてみると、デザインがよく似ており、同時期に作られた可能性が高いと考えられます。ただ図面に記された鬼瓦の寸法をみると、家紋の直径が1尺8寸(約55cm)と記されています。今回見つかった鬼瓦では約40cmですから、徳川期大坂城の大棟に葺かれた鬼瓦はさらに大きなものであったことがわかります。
写真1:瓦溜まりの断面
写真2:三葉葵紋の鬼瓦
図:徳川期大坂城天守大棟の鯱と鬼瓦
今回の調査では10個以上の鬼瓦が見つかりましたが、文様や造り方が異なっており、造られた時期や葺かれた場所によって特徴が出ることがわかります。
徳川期の天守は寛文5(1665)年に落雷によって焼失してしまい、以後再建されることはありませんでした。とすると、今回紹介した資料は、天守が再築された1627年から焼失する1665年までの間に造られたものとみてよいでしょう。大坂城初期の瓦を考える手がかりが得られたという意味で、大きな意味を持つ発見です。
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