大阪市教育委員会と公益財団法人大阪市博物館協会・大阪文化財研究所、大阪市経済戦略局は平成25年7月8日から10月10日まで、豊臣石垣公開のための最初の調査となる発掘調査を行いました。昭和59年(1984)に見つかった石垣の一部を再発掘するなど、豊臣時代から近代にいたる遺構を確認することができました。
現場が最終局面を迎えた9月20日〜22日には現地を公開し、3600人の方々が400年前の石垣を一目見ようと訪れました。今回は、調査成果の概要を紹介します。
公開予定地は金蔵のすぐ東、現天守閣の南東にあります。調査を始めると昭和6年建設の第四師団司令部庁舎(もと大阪市立博物館)付属の車庫の基礎がみつかりました。基礎の中で赤く見える部分は明治元年(1868)の戊辰戦争時の焼土層上面にあたります。
天守閣と調査地(南東から)
発見された徳川期の石列と石組み溝(北から)
寛政5年(1793)大坂城絵図に描かれた金蔵と区画施設
現存する金蔵は、18世紀半ばにそれまであった建物を改築したものと考えられています。この改築時に金蔵を取り囲む区画施設として作られたのが、今回発見された石列と石組溝だろうと考えられます。石列は南北に17mほど延び、石組溝はその東側で見つかりました。石の上面にはほぞ穴状の穴を開けたものがあり、石の上に柱を建てた可能性があります。また、地層の関係や、石を割るために開けられた「矢穴」の形状から、この石列と石組溝は18世紀後半頃に設置されたものとわかります。金蔵の建設より、少し遅れる可能性を示しています。なお、石列の設置前には大量の瓦が捨てられ、そこから三葉葵文の鬼瓦を含む貴重な資料が得られています。このWebサイトでまた紹介しますのでご期待ください。
豊臣期石垣の上端
鋼板塀に設置した見学用窓
現場説明会風景
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