太閤秀吉が築いた初代大坂城の石垣を発掘・公開への取り組みと募金案内。

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歴史講座「地下に眠る豊臣大坂城の石垣を探る」が終了しました

平成26年10月31日(金)、大阪歴史博物館において(公財)大阪市博物館協会と共催した歴史講座「地下に眠る豊臣大坂城の石垣を探る」が終了しました。

金曜日の午後という平日開催にもかかわらず、約160名の参加を得て、最後まで熱心に聴講していただきました。講演会の概要を紹介し、参加いただけなかった方々に歴史講座の概要と会場の熱気をお知らせしたいと思います。

発表いただいた講師は①(公財)大阪市博物館協会、大阪文化財研究所の学芸員市川創さん、②元大阪城天守閣館長の中村博司さん、③大阪産業大学教授の玉野富雄さん、④高槻市立しろあと歴史館事務長で学芸員の中西裕樹さんの4名の専門家からそれぞれ50分間講演をしていただきました。

①市川創さんの講演

市川さんのお話は、「石垣から豊臣期大坂城本丸を復元する」と題してこれまでに実施された約30件の発掘調査の成果と150か所を数えるボーリング調査の成果から、豊臣期本丸がどのように埋もれているかを考えてみようというお話でした。まず最初に大坂城が歴史の節目に必ず焼けた城で、そのたびに修復され現在に至る歴史上重要な遺跡であり大阪府下に2か所しかない「特別史跡」であること、徳川期(現在)の大坂城がまず大切に保存されなければならないことが述べられました。

昭和34年発見の地下石垣については、今回の発表に当たって測量を行い、これまであまり明確でなかった石垣の位置を地図中に正確に位置づけた図面が初めて公表されました。そして、中井家本丸図に示された石垣の方向と、発見された石垣の方向が大きくずれていることが指摘されました。

また、昭和59年の調査では、石垣勾配が約70゜であること、発掘調査で石垣前面に落ちた栗石が見つかり、石垣上部が破壊されたため、裏込めの石材が落下したものと推定されること、1例ではあるが、石材に矢穴が残るものがあり、矢穴の形状が徳川期のものより古い形状を示していることが述べられました。また、昭和63年に行われた配水池北側の石垣は(石垣コラム10月号で紹介)、石垣を埋める土から出土した陶磁器や瓦が徳川期のものであり、現状では豊臣期の石垣と断定することはできないのではないかとされました。

また、豊臣期大坂城の地面が発掘によって確認されている地点と、ボーリング調査によって石垣と考えられる石材が確認されている地点の検討から、宮上茂隆氏の本丸重ね合わせ図に替わる重ね合わせ図作成の試みの経過を示されました。今回の報告の中では、まだ結論はでていませんが、基礎資料の蓄積によって豊臣期大坂城の実態が明らかになるのではないかと期待されるご報告でした。

②中村博司さんの講演

中村さんのお話は「豊臣期本丸石垣と「穴太」衆」と題して、豊臣時代の石垣築造集団として知られる「穴太衆」の実態に迫り、秀吉の大坂城築城との関わりを明らかにしようとするお話でした。

技術者集団として「穴太」が最初に文献に認められるのが長享2年(1488)の文書で、銀閣寺の山荘造営に伴う記事であり、その遺構が実際に発掘調査されていることが紹介されました。一方、「穴太衆」の用語が使われる最初は、明暦4年(1658)の江戸城天守台石垣普請であり、それまで技術者集団として一般的に「穴太」と呼ばれていることを述べられました。

また、安土城の石垣普請に「穴太」が従事した記録はないものの、同時期には石垣を築く技術者集団として活動している記録があり、信長の命に従い安土築城にも参加したと考えるのが最も穏当な考えではないかと述べられました。

そして、豊臣期大坂城の築城に「穴太」が関わっていたと考えられる証拠として、大坂城築城が開始される天正11年(1583)9月1日に先立つ8月1日、近江の滋賀郡内にある「穴太共」の居住地を羽柴家の直轄領にしており、近々始まる大坂城築城工事に動員する予定であったことを示しているのではないかということが、浅野長吉書状などで確認されると述べられました。そして、最初に築造が始まった天守の土台は公開予定の石垣を含むものであり、この石垣も「穴太」が築いたものであろうと述べられました。

その後、「穴太」は豊臣政権、徳川政権と密接にかかわって、石垣築造に関わる技術者集団として活躍したことが文献史料を示しながら紹介されました。最後に名古屋市博物館所蔵の『築城図屏風』に描かれた石垣築城風景のなかに「穴太」の具体的なイメージを示すものがあることを紹介され、講演を終了されました。

③玉野富雄さんの講演

玉野さんからは、「豊臣期石垣と徳川期石垣の構造論」と題して、『我が国には世界に誇れる建設文化として石垣がある。石垣は安土城石垣に始まり、豊臣期大坂城石垣を経て、徳川期大坂城石垣において最高技術レベルに達した。徳川期石垣は、石垣形状での断面曲線及び石垣曲面にみられる構造美や構造形式としての力学的合理性から見て、世界的に他に例を見ない極めて優れたものである』というお話を、これまでの地盤工学的調査などに基づき説明されました。

石垣構造を支える地盤の説明に続いて、石垣隅角部の「算木積み」構造についてご説明がありました。『天正15年頃(1577頃)の安土城石垣では直線勾配で石垣石はほぼ水平に積まれている。それに対し、元和元年-寛永6年(1620-1629)の徳川期石垣では「算木積み」構造が完成した状態の反り勾配であり、その稜線にほぼ直角に石垣石が配されている。豊臣期石垣は、その成立過程にあり、「算木積み」の完成状態にはないものの石垣石は大きくしっかりとした構造となってきている』ということを指摘されました。

次に平石部石垣構造について、『自然石をそのまま積み上げる「野面積み」→表面に出る石の角や面をたたき、平たくし石同士の接合面に隙間を減らして積み上げる「打込みはぎ」→方形に整形した石材を密着させ、積み上げる「切り込みはぎ」への進歩があり、豊臣期石垣は「野面積み」、徳川期石垣が「算木積み」部が「切り込みはぎ」で平石部が「打込みはぎ」であるということ。これらの石垣構造と力学的強さの関係について詳細に調べることが重要であり、今まで様々な力学的な解析がなされてきている』とのご説明がありました。

また、『「算木積み」構造について、徳川期石垣では、石垣断面曲線に対し、石垣石間の接面がほぼ直角になるよう積み上げられているとともに、徳川期石垣の石垣石の控え長さは、他の石垣での石垣石に比べて格段に長いものである。石垣構造としては、石垣石の控え長さが長いほど、石垣石が直方体に近いほど、石垣石の設置傾斜度が石垣稜線に直角になるほど力学的に強くなる』ということについて、数値評価を交えながらご説明がありました。

更に「算木積み」における断面形状や石垣の平面形状が石垣の安定に大きく関係することのほか、豊臣期石垣と徳川期石垣の二重構造にも触れながら、豊臣期、徳川期のそれぞれの石垣の構造の違いによる力学的な特性について詳細な説明がありました。

④中西裕樹さんの講演

中西さんは、「城郭史に占める豊臣大坂城」と題して豊臣大坂城が城郭史の中でどのように位置づけられるのかについて述べられました。

まず、豊臣大坂城の本丸が、大きく4つのエリアに分けることができ、中でも最も高い位置にある詰ノ丸が一辺100mを超える「方形」であることが重要であることを指摘されました。Ⅱの区画も一辺80m四方の方形の曲輪で、北に深い「堀切」を設け、土橋によってⅠの曲輪と結ばれる曲輪であること、Ⅲの曲輪は方形とは言えないが、長辺100mを超える曲輪であり、Ⅳの曲輪はⅠの曲輪が北に拡張した曲輪であるとされました。特に天守や奥御殿があるⅠの区画が方形であり、戦国期の方形城館の変遷の中で理解することができることを、各地の様々な城館跡の事例を示しながら述べられました。

とりわけ、織田信長の居城であった小牧城から岐阜城、安土城への変遷のなかで、小牧では信長は山麓に御殿を設け、岐阜では山麓と山頂に館を設け、安土に至って山頂に表と奥御殿を設けるという変化をたどったのだろうと指摘されました。しかし、安土においては地形的な制約から「方形」の主郭を造ることができなかったが、安土の系譜をひく豊臣大坂城では、方形の主郭(詰ノ丸)と表御殿を本丸中に成立させ、なおかつ方形に造ることができたと評価できると述べられました。

また、秀吉が造った聚楽第はその後に造られた会津若松城や広島城などのモデルとされるが、聚楽第のモデルとして豊臣大坂城があり、豊臣大坂城こそ本来のモデルであったと評価できるのではないかと述べられました。そして、詰ノ丸の外枡形虎口の形状が、伏見城や賤ケ岳合戦における陣城に共通する特徴を認めることができることや、Ⅰの曲輪が石塁で囲まれていることなど、秀吉の大坂城は軍事性の強い機能を館に取り入れていると述べられました。これまで豊臣大坂城の曲輪の形や虎口の形を細かく検討する作業は意外とやられておらず、今後、検討していくことの必要性を述べられ、講演を終えられました。

講座の終了予定時間を10分ほど超過しましたが、聴講いただきました皆様や講師の方々のご協力で大変内容豊富な講座になったと考えています。これからも豊臣石垣公開に向けた募金活動と共に、秀吉の大坂城と石垣の謎にせまる講座などの企画も目指してまいりますので、一層のご支援をお願い申し上げます。