太閤秀吉が築いた初代大坂城の石垣を発掘・公開への取り組みと募金案内。

豊臣石垣コラム Vol.91

地下石垣探求の歴史(その2)―異なる重ね合わせ案と調査方針の転換―

はじめに

前号では豊臣時代の石垣発見の契機となった昭和34年(1959)の発掘調査から、発見された石垣をもとに、大阪城天守閣が独自の重ね合わせ図(図1参照)を作成し、それに基づき調査を実施した、昭和48~51年度(1973~1976)までの調査についてとりあげました。

しかし、重ね合わせ図に基づき設定した調査地点の多くで石垣に当たらなかったことや、逆に想定していなかった地点で石垣が発見されたことから、重ね合わせ図の見直しが必要であると考えられるようになっていました。

図1.天守閣による重ね合わせ復元図

図1.天守閣による重ね合わせ復元図
(『大阪城天守閣紀要』第3号1975)

1.宮上茂隆氏の復元案

大阪城天守閣が重ね合わせ図の見直しを行うこととなった理由の一つに、天守閣が重ね合わせ図を公表する以前の昭和42年(1967)に、建築家の宮上茂隆氏によって公表された重ね合わせ復元図(図2)の存在がありました。宮上氏の重ね合わせ図では昭和34年に発掘された石垣は、天守閣が想定した詰ノ丸の石垣ではなく、中ノ段と下ノ段をつなぐ石垣の天端として復元されています(図2印A・B)。

宮上氏の重ね合わせ図に対し、大阪城天守閣はいくつかの疑義を表明し、独自の重ね合わせ図を提示した経緯がありました。その1点目は、宮上氏が重ね合わせ図において、発掘された石垣の角度に合わせ古絵図に描かれた石垣ラインの角度を変更して復元している点(図2A・B)、2点目は同氏が推定する盛土の厚さよりも深くから石垣が発見されている点、3点目は昭和6年(1931)に完成した旧師団司令部庁舎など同氏の推定する遺構面を超える大規模な建設工事が行われているにも関わらず、工事中に石垣が発見された事実が知られていない点を挙げています。

では、宮上氏はどのように重ね合わせ図を作成したのでしょうか。宮上氏が示した重ね合わせの手順を大胆に要約してみますと、まず、現在の大坂城本丸の1500分の1の地形図を用意し、徳川期石垣ラインを示す現在の本丸外郭のラインと、近代以降の大規模な施設を写し取ります。前号で紹介した中井家所蔵の古絵図をもとに、古絵図に記載された長さに合わせ、1500分の1の古絵図の本丸復元図を作製します。その際、絵図に記載された1間を6尺5寸(195㎝)に換算しています。次に昭和34年の発掘で確認された石垣が、古絵図のどこに当たるのかを決定することについては、次のように書いています。

図2.宮上茂隆氏による重ね合わせ復元図

図2.宮上茂隆氏による重ね合わせ復元図
(『建築史研究』第37号1967)に加筆

「現状大阪城の実測平面図に石垣発掘地点を印し、その上に本丸図を重ねるという操作をした。その結果が第6図(本誌図2)である。この図によって発掘石垣上の地表が、豊臣氏時代の「中ノ段帯曲輪」の南西部にあたることがわかる。……」

図3.天守閣による昭和52・53・54年度の調査

図3.天守閣による昭和52・53・54年度の調査

表1.大阪城本丸地区ボーリング調査一覧

表1.大阪城本丸地区ボーリング調査一覧

そこを基点として詰ノ丸の外郭ラインや天守の位置などが復元されますので、発掘地点の推定は宮上氏の復元案の中で大きな位置を占めているといえるでしょう。また、大阪城天守閣から後に批判されることになりますが、発掘されたA地点とボーリング調査で石垣が確認されたB地点、石垣が確認されなかったC地点を示し、古絵図の石垣ラインの角度を変更しています(図2参照)。

高さについては発掘された地下石垣の天端の標高を、調査報告からO.P.+24.90(=T.P.+23.6)m(※1)と算出し、古絵図に記載されている数値をもとに、詰ノ丸外郭の石垣天端がO.P.+31.65mであろうと推定しています。昭和34年当時の地表の高さはO.P.+32.4mですから、現地表面と豊臣期の詰ノ丸外郭石垣の高さは1mほどしか変わらないと復元されているのです。

2.大阪城天守閣による調査方針の転換

さて、大阪城天守閣は昭和51年度までの調査成果の検討を踏まえ、昭和52年(1977)度以降、地下石垣の追求から本丸地域の地質を明らかにすることを目的とする調査にシフトしていきます。方針転換に至る経緯は、調査の総括を行った『大阪城天守閣紀要』第12号(1984年)に詳しくまとめられています。

(1)昭和52~54年度の調査(図3、表1)

ボーリング調査の目的を本丸地下の地質の確認へと変更した天守閣は、昭和52年度に17~21地点、53年度に22~24地点、54年度には25~27地点のボーリング調査を行っています。

昭和52年度に実施された17・18・19・20地点は、桜門枡形を出て天守閣に至る南北の園路に設定されています。21地点は遠く離れて山里丸で実施されていますが、これまでに調査を行っている9地点や13地点のデータを加味すると、本丸を南北に縦断する設定となっています(図3参照)。

昭和52年度の調査の結果、19地点と20地点の間に大きなくぼみみがあり、その南北の両端に石垣遺構が認められています(図4参照)。このくぼみは表御殿地区と奥御殿地区をつなぐ土橋状の隘路の西側低部に当たると考えられます(図2印参照)。

図4.本丸南北断面地質図(部分)

図4.本丸南北断面地質図(部分)
(『大阪城天守閣紀要』第7号別冊1979より)

昭和53年(1978)度は、本丸を東西に横断する22~24地点までの調査が行われています(図5、表1参照)。ミライザ大阪城の北に位置する23地点では地表面下9.0mから18.65mまで花崗岩が確認されています。石材が垂直で大規模に確認されていることから井戸側などの遺構に当たっている可能性が想定されています。

また、堀そのものに当たってはいませんが、20地点と24地点の間に堀があることが推測されています(図5参照)。

昭和54年(1979)度の調査では本丸南東部の25地点、本丸南西部の27地点とミライザ東の26地点の3ヶ所で調査を行っています(図3、表1参照)。26地点では地表面下8.4mの深さで厚さ0.4m、0.5mの花崗岩2石、その下に厚さ1.5mの花崗岩や砂岩の礫層が確認されています。検出された深さから、豊臣時代の石垣と想像されますが、古絵図のどこに相当するのかは今後の課題とされています。

(2)昭和55・56年度の調査

図5.本丸東西断面地質図(『大阪城天守閣紀要』第8号 1980より)一部加筆

図5.本丸東西断面地質図
(『大阪城天守閣紀要』第8号1980より)一部加筆

天守閣による本丸内のボーリング調査は、昭和54年度をもって一旦終了しましたが、昭和55年(1980)度、56年(1981)度に本丸の南東部にあたる二ノ丸南部において3か所ずつの調査を行っています(図6参照)。昭和54年(1979)度まで実施されてきた本丸地区との関連を確認するために実施されたもので、28~30地点では1mほどの近代の地層の下で洪積層が確認されています。また、31~33地点は、明治時代以降にかく乱された地層があり、その下に洪積層と考えられる暗青灰粘土層が確認されています。

昭和56年(1981)度の調査をもって、昭和48年(1973)度から9年にわたって実施されてきた大阪城天守閣によるボーリング調査は一段落することとなります。

図6.天守閣による昭和55・56年度の調査地点

図6.天守閣による昭和55・56年度の調査地点

図7.水道局による昭和53年度の調査

図7.水道局による昭和53年度の調査

3.水道局による昭和53年度の調査(水道A)

天守閣によるボーリング調査が終息に向かいつつあった昭和53年(1978)度に大阪市水道局によって、配水池の基礎地盤の状況を明らかにする目的でボーリング調査が行われています。

場所は現在の天守閣東側にある配水池の四隅です。配水池は、明治28年(1895)に竣工した国内で4番目に古い浄水施設で、徳川期の地面の上に配水池の構造物が建設されています。当初ボーリング調査は配水池の四隅(北西部:水-1、北東部:水-2、南東部:水-3、南西部:水-4)の予定でしたが、北東部で豊臣時代の石垣と推定される石材に当たったため、2ヶ所(水-5・水-6)の調査を加えています。また、水-3でも石垣遺構にあたったため、場所を移動して(水-3´)の調査を行っています(図7参照)。水-5では地表面下4.5mで石垣に当たり、水-6では地表面下9mで石垣に当たったことから、東に向かって落ちる石垣が確認されたと報告されています。配水池北東隅部は豊臣期大坂城天守の想定位置に当たっており、石垣の確認は、昭和62年(1987)度に実施された豊臣期天守台確認調査のきっかけとなるものでした。

さいごに

昭和34年に初めて地下石垣が発見されて以降、昭和56年度までに20ヶ所以上で石垣と考えられる石材が確認されています。そのほとんどが昭和34年の調査で石垣が確認された現地表面下約7mの深さに近いか、それよりも深い位置で石材に当たっています。言い換えれば中ノ段帯曲輪とそれ以深についてはボーリング調査によって多くの情報が得られたといえますが、中ノ段より高い詰ノ丸の部分については、ボーリング調査によって十分な情報が得られず、隔靴搔痒の感はいなめなかったのです。

次号では豊臣時代大坂城の研究の中で、エポックを画することとなった「詰ノ丸石垣」発見以降の調査について見ていきます。

※1:「O.P.」は「Osaka Peil」の略で「大阪湾最低潮位」を基準とした標高の表記で昭和34年の調査ではO.P.値が使われていました。現在使用されている「T.P.」は「Tokyo Peil」の略で「東京湾平均海面」を基準とし、T.P.=O.P.値-1.3mで換算できます。

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