太閤秀吉が築いた初代大坂城の石垣を発掘・公開への取り組みと募金案内。

豊臣石垣コラム Vol.89

大阪城の高さ色いろ

大阪城の高さにまつわる話題について、本コラムでも何度か取り上げてきました。これまでの記事と重複することがあるかもしれませんが、豊臣時代と徳川時代大坂城の高さにまつわるいくつかの話題を紹介させていただきます。

1.豊臣大坂城「中ノ段」と「詰ノ丸」の地表面の高さ

~現在の地表面の1mほど下には秀吉や秀頼が歩いた地面が~

昭和34年(1959)に実施された「大坂城総合学術調査」によって発見された「謎の地下石垣」により、豊臣時代の大坂城(発見当時は時代を特定していなかった)が7mもの盛土の下に埋まっていることが明らかとなりました(図1-❶)。この発見は想定外のことであり、新聞等でも大きく報じられました。

しかし、さらに驚く発見が昭和59年(1984)にありました。現地表面の約1m下から豊臣時代の石垣が発見され、昭和34年に発見された石垣天端とでは6mもの差があったことが分かったのです。検証の結果、昭和34年発見の石垣は豊臣大坂城の「中ノ段」地表面にあたり、昭和59年に発見された石垣は「中ノ段」の地面から築かれた、豊臣時代本丸の中枢部「詰ノ丸」を巡る石垣であることが明らかとなりました(図1-❷)。

ところで、昭和59年の調査では、わずかですが詰ノ丸内部の地表面を調査しています。調査で確認されたそれぞれの標高(T.P.値〈東京湾平均海面〉を基準とした高さ)をみてみますと、昭和34年に発見された石垣天端の高さが、23.9m(図1-❶)、昭和59年に発見された石垣の天端(図1-❷)が29.8m、石垣基底部(図1―❸)が24.1m、詰ノ丸内部の高さ(図1-❹)が30.0mとなります。

図1.豊臣期・徳川期大坂城の高さ比較(数値は標高)

図1.豊臣期・徳川期大坂城の高さ比較(数値は標高)

本来、詰ノ丸を取り囲む石垣の天端は、詰ノ丸内部の地表面より高いはずですので、石垣天端の高さについては今後も検証が必要ですが、30m前後に詰ノ丸内部の地表面があったことは間違いありません。現在の本丸地表面の高さは31.2~31.5mくらいですので(図1-❺)、詰ノ丸があった地区(現在の天守閣や配水池周辺)では1mほど下に、秀吉や秀頼が歩いた地面が埋まっているのです。

2.豊臣時代「下ノ段」と「内堀」の深さ

~徳川時代に埋めた内堀の深さは25m以上~

令和7年(2025)には大阪・関西万博が開催予定ですが、昭和45年(1970)には大阪府吹田市を会場として大阪万博EXPO‘70が開催されました。大阪万博で行われた様々な事業の一つに、昭和45年当時の日用品など、全2098点の資料を納めた「タイムカプセル」を地下深くに埋め、5000年後に開封するというものがありました。その埋設場所として大阪城本丸が選ばれました。タイムカプセルの埋設に先立ち、昭和44年(1969)にボーリング調査が行われ、その結果、地表下約25mで石材にあたったことが報告されています。周辺の地表面の標高は約31mですので、その25m下、標高6m付近で石材にあたったことになります(図1-❻)。ボーリング調査で確認された石材としては、この場所が現在最も深い位置になります。

タイムカプセル埋設の位置を豊臣時代の本丸復元図に落としてみますと、現在の本丸エリアに水堀が深く切れ込んだ位置に当たると考えられます(図2参照)。したがって、内堀の部分に限れば徳川時代の再築に伴い25m以上の盛土が行われているのです。

本丸内タイムカプセル
図2.宮上茂隆氏の重ね合わせ図中の地下石垣、タイムカプセルの位置

図2.宮上茂隆氏の重ね合わせ図中の地下石垣、タイムカプセルの位置

3.徳川時代天守の高さ

~徳川時代の天守は現在の天守より3mほど高かった~

豊臣時代と徳川時代の大坂城を比較した図を見ると、徳川時代の天守の高さが約58m、豊臣時代の天守の高さが約40mと書かれています。この高さの根拠はどこにあるのでしょうか。徳川時代の天守の高さは大阪市中央区願生寺に伝来した「大坂御城天守指図」や、内閣文庫所蔵の「大坂御城御天守図」に記された記録をもとに算出されたものです。天守台と櫓部分(天守)を足した全高が29間3尺9寸とされています。1間=6尺5寸≒1.97mとしますと、58.3mとなります。現天守台基底の標高が約31mですので、そこから58mの天守か建っていたとすると標高は89mとなります。現在の復興天守の鯱の標高が、85.9mというデータがありますので、徳川時代の天守は現在の天守よりさらに3mほど高かったことになります(図1―❼)。

4.豊臣時代天守の高さ

~豊臣時代の天守は現在の天守より16mほど低かった~

豊臣時代の天守については建物の寸法を記した史料が残っているわけではありません。ただ、天守台の位置や規模は中井家伝来の「豊臣時代本丸指図」で明らかになっています。これをもとにした復元案が、櫻井成廣、宮上茂隆、佐藤大規氏らによって示されています。宮上氏が復元した天守は、詰ノ丸地表面に5尺の石垣を築きその上に天守を築いたと復元されます。天守頂部の高さは詰ノ丸地表から約40mとされています。詰ノ丸地表は標高30mであることが発掘調査で確認されていますので、豊臣時代の天守頂部の標高は70mの高さだったと推定されます。徳川大坂城の天守の高さが推定89m、現在の天守が85.9mですので、徳川時代の天守より約19m(図1-❽)、現在の天守よりは約16m低かったことになります。

このように高さだけで比較すると、豊臣時代の天守は徳川時代に比べてだいぶん低い位置にあったといえるのですが、徳川時代の天守台が平坦な本丸に築かれているのに対し、豊臣時代の天守は下ノ段、中ノ段、詰ノ丸という三段築成のさらに上に石垣を築いて天守を載せていることから、「三国無双」と讃えられるにふさわしい威容を誇っていたことが推測できます。

【参考文献】

・櫻井成廣1970『豊臣秀吉の居城』大阪城編 日本城郭資料館出版会

・渡辺武・内田九州男・中村博司1975「豊臣時代大坂城遺構確認調査概報」『大阪城天守閣紀要』第3号

・渡辺武・内田九州男・中村博司1983『大阪城ガイド』保育社(カラーブックス)

・松岡利郎1983「江戸時代大坂城の建築」『大坂城の歴史と構造』名著出版

・宮上茂隆1994「豊臣大坂城天守復元」『[歴史群像] 名城シリーズ1 大坂城』

・松岡利郎1994「徳川大坂城天守復元」『[歴史群像] 名城シリーズ1 大坂城』

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