太閤秀吉が築いた初代大坂城の石垣を発掘・公開への取り組みと募金案内。

豊臣石垣コラム Vol.88

地層から見る大坂城北辺の豊臣時代

図1.大阪城北辺の地形と鴫野橋の調査地

図1.大阪城北辺の地形と鴫野橋の調査地

(マップナビおおさかに加筆)

大阪城北辺の地形

大阪城を南から俯瞰しますと、本丸を最高所として北に向かって階段状に低くなります。この傾斜は大阪城が立地する上町台地北端部の自然地形を反映したものです。大阪城の縄張りとしては、本丸南側と山里丸との高低差、二の丸西部の西の丸庭園と京橋口周辺との高低差、二の丸東部の玉造口枡形周辺と梅林との高低差としてあらわれています(図1)。

上町台地の崖下に広がる低地部では徳川期の護岸石垣豊臣期の城郭に伴う遺構、本願寺期の町屋などが確認されており、本コラムでも取り上げてきました。しかし、遺構が発見されているのは京橋より西側だけで、東側については特別史跡のエリアとなることもあって、発掘調査自体がほとんど行われていないところです。そして唯一の調査が、昭和61(1986)年11月から昭和62年1月にかけて行われた新鴫野橋付け替えのための調査ということができます。ここでは、これまで紹介できていなかった京橋以東の調査について取り上げ、川辺にちかい大坂城北辺の豊臣時代について考えてみたいと思います。

調査地点

発掘した地点は鴫野橋(現新鴫野橋)の南詰に位置します(図1)。鴫野橋は徳川期から現在と同じ場所にあり、幕府が維持管理する公儀橋(※1)の1基でした。徳川期には橋の北詰に京橋口定番の下屋敷があって、城内と大坂城北方とを結ぶ重要な橋であったといえます。

徳川期の絵図を見ますと、鴫野橋の南詰には大和川(現第二寝屋川)と外堀の間に鈎型に折れる「仕切り」(※2)が描かれています(図2)。この仕切りを挟んで東は蔵が建ち並ぶ「御蔵曲輪」、西は京橋口に通じる「三の丸(北曲輪)」となります(図3)。発掘調査では、仕切りの石塁の基部となる低い石垣や、石垣の下層で徳川期以前の地層が確認されました。

図2.徳川期の絵図に描かれた鴫野橋と仕切り

図2.徳川期の絵図に描かれた鴫野橋と仕切り

図3.大坂城北部の徳川期建物配置復元と調査地の位置

図3.大坂城北部の徳川期建物配置復元と調査地の位置

見つかった遺構と地層(図4)

調査地点において徳川期の地表面と考えられる地層が、標高3.2mで見つかりました。現在の地表面の高さは5.3mほどですので、現在までに約2mの土が盛られたことになります。徳川期の遺構面の下には厚い整地層が3枚(第5・第7・第9層)あり、盛土の間に焼土混じりの地層(第6・第8層)を挟んでいます。第6層からは、直径10cm程度の菊文の差瓦(さしがわら)がまとまって出土しています(図4-8~10)。瓦の中には金箔瓦が少数含まれています。

第6層の下には厚い盛土層である第7層があります。この地層には弥生時代や奈良時代の土器が含まれており、最も新しい遺物が豊臣期の瓦(図4-6・7)です。したがって、第7層は古い時代の地層を掘り起こして運んできた盛土層であることがわかります。

図4.地層の模式図と出土遺物

図4.地層の模式図と出土遺物

第8層は焼土を含む薄い地層で、上面が堅く締まっています。上面から60㎝大の花崗岩が見つかっています。ある時期の地表面と考えられます。第9層は粘土ブロックが混じる盛土です。遺物を含んでいません。第10層はほとんど瓦だけが堆積した地層です。ここからは二次的に火を受け焼けひずんだ瓦や桐紋の金箔軒丸瓦などが出土しています(図4-1~3)。桐紋の金箔瓦が含まれていることから、第10層が豊臣時代以降の地層であることは間違いありません。この瓦堆積層の下に、こぶし大の石が放り込まれた第12層がありますが、それ以深は十分な調査ができませんでした。

調査地の変遷

それでは、以上の調査結果からどのようなことが推定できるでしょうか。報告書【(財)大阪市文化財協会2002『大坂城跡』Ⅵ】では、標高3~3.5mにある第6層が慶長20(1615)年の大坂夏の陣に由来する焼土層であろうと考えています。また、標高0m以下にある第12層を豊臣氏の大坂城築城のための整地層と考え、第11層から第7層が豊臣氏による大坂城築城から夏の陣までの地層としています。

第10層を豊臣氏大坂城築造当初の地層と考えた場合、築城当初の地層に金箔瓦が含まれていることについて、使用前に破損したために廃棄された、などの解釈が必要です。また、多数の焼けひずんだ瓦が含まれていることの理由として、これらが本願寺期にさかのぼる可能性を考える必要があります。現状では、そう考えても矛盾はないと考えますが、確証は得られていません。

一方で、第10層が夏の陣の時期まで新しくなる可能性も否定できません。そう考えますと、第7~第9層は徳川期大坂城再築時の盛土、第6層は徳川初期の地層であると考えます。第6層には比較的まとまった瓦が出土していて時期を限定できそうに思えますが、現時点では、確定することが難しい状況です。

とはいえ、第6層の時期をどう考えるかによって、この地域の豊臣期の景観や築城の経過は大きく違ったものとなります。第6層を夏の陣と考えますと、この地域が豊臣期に少なくとも3m程度の盛土によって整地されていた状況を推定できるのですが、10層を夏の陣と考えますと、この地域は徳川期の再築工事まで低湿地で残されていたと考えられるのです。

また、京橋以西の低地部では豊臣期の遺構の下から本願寺期の遺構が確認されています。遺構が確認された地域の広がりを図1に示しています。これを見ると、京橋以東では大坂城内の低地部につながります。「青屋口」や「極楽橋」の名称が本願寺に由来すると考えられていることからも、大坂城内の低地部に本願寺期の集落が広がっていた可能性は十分想定できます。大阪城北辺の本願寺期から豊臣期、徳川期にかけての変遷については、解明していかなければならない課題として、今後も検討していきたいと思います。

※1.公儀橋:幕府の経費によって維持された橋、江戸では160~170基、京都では107基ありましたが、大坂では12基しかなく、大坂の橋の多くは周辺の町が管理した町橋でした(角川『新版日本史辞典』)。

※2.仕切り:石塁と塀、門で構成され、曲輪内を区画する施設。二の丸北部の西仕切りが現在も比較的よく残っています。

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