豊臣石垣公開事業に伴う発掘調査は、令和3(2021)年3月をもって公開する石垣の発掘調査が終了しました。調査が大詰めを迎えた2月19日から21日まで、現地を一般公開しました。石垣調査が終了し公開事業が新しい段階を迎えましたので、昭和59(1984)年の石垣発見から今日までの経過について、発掘調査を中心に振り返ってみたいと思います。
写真1. 公開石垣の位置
今回公開する詰ノ丸石垣が発見される契機となったのは、昭和59年10月8日から始まった「大阪城内配水池改良工事に伴う発掘調査」によってです。天守閣の東にある配水池は明治28(1895)年に完成した、我が国で4番目に古い上水道施設ですが、市中へ水を供給するためには配水池に揚水する必要があります。そのため配水池に向かって水を送る管と、配水池から市中へ供給するための管が必要です。この管は本丸西の石垣に顔を出しています(写真2)が、本丸内では地下に埋設されています。この埋設された管の改良工事に伴い実施されたのが昭和59年に行われた調査でした。
写真2. 本丸西の石垣から顔を出す水道管
当時の調査記録を見ますと、10月18日から金蔵北側の通路で管を埋設するための筋掘りを開始しています。その初日に掘削した溝に沿うように地表面から120㎝ほど掘ったところで石垣と考えられる石の並びが見つかっています。10月20日には関係者が多数訪れ、大騒ぎになっている様子がうかがわれます。発見された「石垣」が宮上茂隆氏によって発表されていた「詰ノ丸」外郭の石垣であることが想定されたからです(※1)。
その後、石垣の規模や位置を確認するためのボーリング調査やトレンチ調査を行い、本格的な発掘調査を年明けから行うこととなりました。
図1. 発掘された豊臣期詰ノ丸石垣
詰ノ丸石垣の位置や規模を確認しているさなかの12月15日に、配水池斜面の盛土下で行われていた工事で、想定していなかった石垣が発見されました。先に見つかっていた石の並びに平行し、北に面をもった石垣でした。そのため、詰ノ丸内部に面した詰ノ丸外郭石垣の内廻りの石垣と考えられました。詰ノ丸の地表面には石組み溝があり、それが外郭石垣内部にまで延びていることがわかりました(図1・2)。
図2. 詰ノ丸外郭、内廻り石垣と外廻り石垣の関係模式図
年が明け昭和60(1985)年1月から詰ノ丸外郭外廻り石垣の本格的な発掘調査が始まりました。石垣の隅角部と北に延びる石垣を構築面まで掘り下げ、高さ約5.5mの石垣が掘り出されました。当初見つかった東西の石の並びは南に面を持った石垣の天端であることがわかりましたが、調査範囲の制約から掘り下げることができませんでした。
4月3日の新聞各紙の夕刊で“太閤石垣見つかる”などと大きく取り上げられました。そして4月7日に現地公開が行われ、雨にもかかわらず約5千人の見学者がありました。
昭和59・60年の調査で多くの人が驚いたのは、浅いところでは1m掘ると豊臣時代の地表面に当たる、という事実でした。昭和34(1959)年の大坂城総合学術調査で発見された地下石垣が現在の地表面から約7m下で発見されたことから、豊臣時代の石垣は地中深くに眠っているという先入観があったのです。
詰ノ丸石垣の発見により、昭和34年発見の石垣は詰ノ丸から一段下がった中ノ段と下ノ段をつなぐ石垣であることが確定し、宮上茂隆氏の復元案の正確さが証明されることにもなったのです(※2)。
現地公開後、水道施設の改修工事が終了すると石垣は埋め戻され、豊臣期の石垣の存在を示すものは何もない元の状態に戻されました。秀吉が築いた詰ノ丸石垣を公開できないか、という案は何度か検討されましたが、具体化することなく平成25(2013)年まで29年間埋め戻されていました。
次回は、その後の経過について紹介します。
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