前回に続き大阪城の鯱の話題を取り上げます。時代はずっと下って昭和6年(1931)の天守閣復興の際に起こった論争です。
事の次第を記録から見ると、以下のようになります。昭和6年6月29日の朝日新聞朝刊に復興される天守を飾る鯱の図が掲載されました。製作される鯱は金属製で市内の鋳金家によって製作され、寄贈されることとなっていたのです。この図を見た大阪史蹟会代表の佐藤佐(たすく)氏は復元される鯱が桃山時代の鯱の姿を反映しておらず、復興される天守の鯱としてふさわしくないとして、大阪市の案による鯱の製作反対と改鋳の要望を大阪市に申し入れたのです。
図1. 復興天守の二つの鯱案 左:大阪市案、右:古川重春氏案
運動の経緯と顛末については、大阪城天守閣の特別展図録『大阪城天守閣80周年記念特別展 天守閣復興80th』に詳しく解説されていますので参照していただくとして(※1)、復元案のどこが桃山時代的でないと考えられたのか、どのような主張が行われたのか見てみたいと思います。
図1は大阪史蹟会発行の『復興大坂城天守閣鯱鉾に関する経過報告 並に絶対反対声明書(第二冊目)』(以下「声明書」と記す)に掲載された鯱の復元案です。左が大阪市案、右は天守閣竣工の半年前まで大阪市嘱託として復興天守の設計など中心的な役割を果たしながら、反対運動に顧問として名を連ねた古川重春氏(※2)の復元案です。
さて、「声明書」には大阪市復元案についてその問題点が縷々述べられていますが、その中で最も大きな問題とされているのは大阪市案が江戸時代の鯱を復元の基礎にしていると考えられていることです。具体には大垣城の鯱瓦を骨子とし、江戸城の頭部を付加したものであると指摘されています。また、豊臣期大坂城の鯱の実態が不明である限りは、桃山の代表作である名古屋城の鯱を復元の参考とするべきであるとされています。そして「桃山式は実に頭部が魚相であって相当大ならしめねばならぬ」とされています。
佐藤氏の意見を念頭におき図1の復元案を比較してみますと、左の鯱は頭部が小さく体部も細身で全体的に華奢な感じを受けます。一方、右の古川氏の案は頭部が大きく胴部も太く復元されています。
図2は佐藤氏が桃山時代の代表例とされた名古屋城の鯱の実測図です。名古屋城の鯱は木製に金を貼り付けたもので瓦ではありません。側面の図を見ると、頭部が全体の半分ほどを占めています。胸鰭や腹鰭は大阪城の復元案と比べると、鰭の筋の表現や形状が写実的といえます。名古屋城の鯱が桃山様式を代表すると考えられていたのであれば、大阪市の復元案との違いが大きかったことは想像に難くありません。とはいえ、古川氏の復元案(図1-右)も名古屋城の鯱と比較すれば、頭部は大きくなっていますが、どちらかといえば大阪市の案と近いように感じられます。
図2. 名古屋城天守南側鯱詳細図
さて、運動の結果は佐藤氏らの意見は入れられず、大棟を飾った鯱は大阪市の原案通り鋳造されました(写真1左)。しかし、大棟の鯱とそれ以外の鯱を比べてみますと、形状がだいぶん異なることがわかります(写真1)。
写真1. 左:大阪城天守閣大棟 右:3層
運動が終息した後の古川氏の述懐として、大棟(※3)以外の鯱は古川氏の主張がいくぶん反映されたらしいことが紹介されています(※4)。古川氏の復元案(図1右)と3層目の鯱(写真1右)を見比べますと確かに頭部の大きさやプロポーションが近似し、大棟の鯱とは異なるように見えます。この違いは、佐藤氏と古川氏らの意見が部分的にでも採り入れられたことを示しているのではないでしょうか。
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