中世から近世にかけての瓦を網羅的に研究された山崎信二さんの著書『瓦が語る日本史』(※1)に、豊臣期大坂城の瓦が取り上げられています。大坂城跡は城郭部分の発掘調査が少ないため、周辺の武家屋敷地から出土した瓦を基に検討が加えられています。その内容を大胆に要約しますと以下のようになります。
〝大坂城の天守に葺かれた瓦はいまだ確認されていない。豊臣期大坂城の造営のための瓦は大坂城近くで焼かれた瓦もあるだろうが、大部分は周辺の生産地から大坂城に一旦集められた後に瓦の大きさを揃え、金箔を押し、瓦を屋根に葺き上げたのではないか。
軒平瓦の同范関係の検討から大坂城の瓦は播磨の瓦生産地から多く集められているのではないか。〟
山崎さんが指摘されるように、現在も豊臣期の大坂城本丸に葺かれた瓦はよくわかっていません。しかし近年、豊臣期の瓦が出土する発掘調査事例が増加し(※2)、本丸出土の瓦の特徴を検討することができるようになってきています。また、本丸出土瓦の中には、軒瓦に加え鯱(※3)瓦も出土しており、鯱瓦の変遷を考えるうえでも重要な資料だと考えられます。本丸出土の軒瓦については改めて紹介したいと思いますが、今回は本丸から出土した鯱瓦について紹介します。
平成21年(2009)、広島地方合同庁舎5号館建設の際にほぼ完形の金箔鯱瓦一対と板屋貝を文様とした金箔の鬼板が井戸の中から発見されました(写真1・2)。この金箔瓦の発見は、全形が判明する最古の鯱瓦の発見として注目を集めました。瓦が製作されたのは毛利輝元が城主であった天正17年(1589)〜慶長5年(1600)頃と考えられています。瓦が埋まっていた井戸は福島正則が城主であった慶長15年(1610)頃に造られたと考えられています(※4)。
写真1. 広島城跡上八丁地点出土金箔鯱瓦・金箔鬼板瓦(財団法人広島市文化財団提供)
写真2. 広島城跡上八丁掘地点出土金箔鯱瓦(左:雄、右:雌)
ところで、鯱とは頭が龍、胴体が魚の想像上の霊獣で天守の棟飾りや隅櫓などの重要な建物に使用されています。名古屋城の金鯱は有名ですが、最古の鯱瓦と考えられています安土城以降、城郭の主要な建物にみることができます(※5)。大坂城でも金箔を施したものも含め、破片は比較的多く出土しています。しかし、いずれも全形がイメージできるようなものではありませんでした。
大坂城本丸出土の鯱瓦の破片は3点あります(写真3-①〜③)。金箔は確認できていません。③は胸鰭と接する胴体部分の破片で、胸鰭を差し込むための孔が穿たれています。鱗は半円形のスタンプで表現されています。②は胴体に差し込む胸鰭の破片、①は尾鰭の一部です。これらの破片を広島城跡上八丁堀地点の鯱瓦(写真3-右)と、時期は下りますが姫路城大天守千鳥破風上の鯱瓦(写真3左、徳川期の瓦の復元品か?)のどこに位置するのかを示したのが写真3です。
写真3. 大坂城跡本丸出土鯱瓦実測図と豊臣期・徳川期の鯱瓦における部位
ほぼ同時期ではないかと考えられる大坂城本丸出土の鯱瓦と広島城跡出土の鯱瓦ですが、鰭の作り方が大きく違います。広島城跡の鯱瓦の鰭が胴体に貼りつけられているのに対し、大坂城の鯱は胸鰭を別に作り胴体に差し込む枘差し(ほぞさし)となっています。鰭を枘差しにするのは一般的には徳川期の鯱瓦にみられる特徴とされています(写真3-左)。
大坂城本丸出土の鯱瓦片から枘差しの鰭は豊臣期にあったと考えられます。では、その出現はどこまでさかのぼれるのでしょうか。類例を探していますと、伝岐阜城跡出土とされる鯱瓦に枘孔を穿った事例がみられました(※6)。この鯱瓦が本当に岐阜城のものであれば、岐阜城が存続した慶長5年(1600)までのものとなるのですが、残念ながら調査による出土ではなく伝世品であるため、年代の根拠とはしにくいものです。また、大坂城は天正11年に築城が開始され天正12年に天守などが完成しますので、大坂城本丸出土の鯱瓦の方が古く位置付けられる可能性があります。
また、天正17年(1589)〜慶長5年(1600)頃作成と考えられている鰭が体部と一体となる広島城跡の鯱瓦の存在を考えますと、異なる型式の鯱が併存している可能性や、瓦工人による技法の違いなどを勘案して検討していく必要があるのだろうと考えます。
最後になりましたが、今回のコラム執筆にあたっては公益財団法人広島市文化財団 広島城主任学芸員篠原達也氏、同学芸員吉田文氏、公益財団法人広島市文化財団 文化科学部 文化財課日原絵理氏には資料提供および画像の掲載許可につきまして大変お世話になりました。記して深謝いたします。なお、広島城跡出土の金箔鯱瓦については、十分説明できませんでしたが、瓦の詳細につきましては広島城企画展展示図録『金箔瓦の系譜』をご参照いただきますようお願いいたします。
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