前号に引き続き金箔瓦について取り上げます。中村博司さんの論文に安土城の金箔瓦がどのような背景で創り出されたのかを論じたものがあります(※1)。そのなかで、金箔瓦は天守全体に使われたのではなく、最上階の7階とその下の6階とを飾ったもので、安土城6・7階の障壁画などのプロデュースを任された狩野永徳(※2)がその出現に関わっているのではないか、と推定されています。安土城の6・7階に展開された黄金の世界を構成する一部として、金箔瓦の出現があったと理解されているのです。金箔瓦の出現が安土城からであると考える中村さんの論拠の一つと推察されます。
中村さんの仮説は十分説得力があるものですが、どうしても腑に落ちない部分がありました。金箔瓦を作るのは瓦職人の仕事で、瓦の種類のひとつとして金箔瓦があるのではないかという漠然とした理解があったからです。
今回紹介する中村さんの論文(※3)は、金箔瓦の金箔をだれが貼ったのかを明らかにしたものです。
中村さんが取り上げた史料は京都市「大中院」所蔵の襖絵の下張りに使われた豊臣時代の文書群の一部で、天正15年(1587)から文禄3年(1594)までの文書です(※4)。
その「大中院文書」の第一七二号文書を論文から引用します。なお、例えば①の「棟瓦薄をしてま」とは、「棟瓦の箔押し手間」という意味です。
(端裏書※5)
「ふしミ 九左衛門尉
伏見御城中瓦ニ薄出候下地ぬり手間注文」
伏見御城中瓦の薄押ほり物以下出し手間分
①一、弐斗八升 井と屋形棟瓦薄をしてま、七人分
②一、壱石 上台所と御たき火の間と間の御らうかの瓦薄をし手間、廿五人分
③一、三斗弐升 御湯わかし所の瓦薄おしてま、八人分
④一、壱斗弐升 御から物蔵の北のしきりの壁瓦薄をしてま、三人分
⑤一、壱石四升 山里東之二階御門瓦二薄おしてま、廿六人手間分
⑥一、壱石弐斗四升 伏見御舞台御かく屋幷木棟のもん薄おしてま、卅一人手間分
⑦一、壱石五斗弐升 同御舞台ほり物之御道具なとの薄おしてま、卅八人分
⑧一、弐斗四升 禁中内侍所御台所と棟瓦薄のおしてま、六人分
合五石七斗六升
文禄三年
十二月廿九日 □(花押)
(後欠)
中村さんはこの史料から、多くの事象を指摘・検討されていますが、ここではその一部だけを紹介します。
中村さんは、箔押し職人に与えられた一日の手間賃の4升が日当として妥当か否かを『長曾我部元親百箇條』掟にある日当と比較しています。掟では諸職人の手間賃として「上手者」が京枡(※8)籾7升、「中者」が京枡籾5升、「下手者」が京枡籾3升とされています。伏見城の箔押しの手間賃が籾であるか玄米であるかは不明ですが、籾であれば「中者」と「下手者」の間、玄米であれば「中者」とほぼ等しいといえます。
いずれにしろ、瓦に金箔を施す作業は、瓦職人ではなく箔押しの職人が行っていたことがこの史料で分かるのです。このことは、大坂城から出土する瓦を瓦作りの一面からだけ考えていたものにとっては、“目から鱗が落ちる”という思いでした。
さて、このことから大坂城の金箔瓦についてどのようなことが考えられるのでしょうか。大坂城築城時には新たに膨大な瓦が必要でした。それらの一部は大坂城の周辺で焼かれたものと姫路(播磨)地域で焼かれ、大坂に運ばれた瓦があることが知られています。
同じ范木から作られた瓦は本丸や三の丸、惣構の各地点から見つかりますので、本丸だけに使われた瓦があるということではありません。各地で焼かれた瓦が大坂城の各所に分配される体制が整っていたことがわかります。
集められた瓦は建物によって金箔を施す瓦とそうでない瓦に分けられ、建築現場の近くの工房で箔押し職人が箔を貼ったことが推測されるのです。どの建物にどの瓦が葺かれるのかによって、金箔瓦とそうでない瓦に分けられたと考えられます。
一方、家紋や馬印をあらわした瓦は一般的な軒丸瓦や軒平瓦とは異なり、供給される場所が製作当初から決まっていたものと考えられます。建物の設計段階で、金箔で飾る建物や部位が決められていたのでしょう。
以上、中村さんの新しい金箔瓦論を紹介させていただきましたが、大坂城から出土する金箔瓦を少し違った視点から見直す必要性を気づかせていただきました。
なお、最後になりましたが中村博司さんからは懇切なご教示をいただきました。心より御礼申し上げます。
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