豊臣石垣コラム Vol.77

金箔押しの手間賃

金箔瓦の出現

前号に引き続き金箔瓦について取り上げます。中村博司さんの論文に安土城の金箔瓦がどのような背景で創り出されたのかを論じたものがあります(※1)。そのなかで、金箔瓦は天守全体に使われたのではなく、最上階の7階とその下の6階とを飾ったもので、安土城6・7階の障壁画などのプロデュースを任された狩野永徳(※2)がその出現に関わっているのではないか、と推定されています。安土城の6・7階に展開された黄金の世界を構成する一部として、金箔瓦の出現があったと理解されているのです。金箔瓦の出現が安土城からであると考える中村さんの論拠の一つと推察されます。

中村さんの仮説は十分説得力があるものですが、どうしても腑に落ちない部分がありました。金箔瓦を作るのは瓦職人の仕事で、瓦の種類のひとつとして金箔瓦があるのではないかという漠然とした理解があったからです。

今回紹介する中村さんの論文(※3)は、金箔瓦の金箔をだれが貼ったのかを明らかにしたものです。

「大中院文書」

中村さんが取り上げた史料は京都市「大中院」所蔵の襖絵の下張りに使われた豊臣時代の文書群の一部で、天正15年(1587)から文禄3年(1594)までの文書です(※4)。

その「大中院文書」の第一七二号文書を論文から引用します。なお、例えば①の「棟瓦薄をしてま」とは、「棟瓦の箔押し手間」という意味です。
(端裏書※5)
「ふしミ            九左衛門尉

伏見御城中瓦ニ薄出候下地ぬり手間注文」

 伏見御城中瓦の薄押ほり物以下出し手間分
①一、弐斗八升 井と屋形棟瓦薄をしてま、七人分
②一、壱石 上台所と御たき火の間と間の御らうかの瓦薄をし手間、廿五人分
③一、三斗弐升 御湯わかし所の瓦薄おしてま、八人分
④一、壱斗弐升 御から物蔵の北のしきりの壁瓦薄をしてま、三人分
⑤一、壱石四升 山里東之二階御門瓦二薄おしてま、廿六人手間分
⑥一、壱石弐斗四升 伏見御舞台御かく屋幷木棟のもん薄おしてま、卅一人手間分
⑦一、壱石五斗弐升 同御舞台ほり物之御道具なとの薄おしてま、卅八人分
⑧一、弐斗四升 禁中内侍所御台所と棟瓦薄のおしてま、六人分
    合五石七斗六升
     文禄三年
      十二月廿九日          □(花押)
(後欠)

中村さんはこの史料から、多くの事象を指摘・検討されていますが、ここではその一部だけを紹介します。

  • この史料は、箔押し職人(もしくはその棟梁)の九左衛門尉という人物が、秀吉によって文禄元年に築造が始められ、同三年に大規模に拡張工事が行われた伏見城(指月城)(※6)内にあった諸施設の屋根瓦および彫り物等に金箔を押す作業の手間賃としての米の数量を書き上げ、京都所司代前田玄以の筆頭奉行人である松田正行に提出した請求書である。
  • 端裏書にある下地ぬり手間というのは間違いで、文書の表題にあるように瓦の金箔押しの手間代を示す。
  • ⑤は山里丸の東を限る二階御門の屋根瓦とあることから、指月城の山里丸に金箔を貼った二階建ての櫓門(最も格式の高い城門)があったことがわかる。また、棟瓦と断っていないことから軒瓦にも金箔を押した総瓦葺き建物であったと考えられる。
  • ⑧は禁中(当時の御所)の内侍所(三種の神器の一つ八咫鏡(ヤタノカガミ)を安置する役所。※7)に付属する台所の棟瓦の箔押し手間代である。請求もれしていた御所の手間賃を伏見城の手間賃と一緒に請求したのではないか。
  • ①〜⑧に書かれた職人数で手間賃(米数量)を割ると、一人の一日宛て手間賃は米4升となる。

箔押し職人の手間賃

中村さんは、箔押し職人に与えられた一日の手間賃の4升が日当として妥当か否かを『長曾我部元親百箇條』掟にある日当と比較しています。掟では諸職人の手間賃として「上手者」が京枡(※8)籾7升、「中者」が京枡籾5升、「下手者」が京枡籾3升とされています。伏見城の箔押しの手間賃が籾であるか玄米であるかは不明ですが、籾であれば「中者」と「下手者」の間、玄米であれば「中者」とほぼ等しいといえます。

いずれにしろ、瓦に金箔を施す作業は、瓦職人ではなく箔押しの職人が行っていたことがこの史料で分かるのです。このことは、大坂城から出土する瓦を瓦作りの一面からだけ考えていたものにとっては、“目から鱗が落ちる”という思いでした。

大坂城の金箔瓦

さて、このことから大坂城の金箔瓦についてどのようなことが考えられるのでしょうか。大坂城築城時には新たに膨大な瓦が必要でした。それらの一部は大坂城の周辺で焼かれたものと姫路(播磨)地域で焼かれ、大坂に運ばれた瓦があることが知られています。

同じ范木から作られた瓦は本丸や三の丸、惣構の各地点から見つかりますので、本丸だけに使われた瓦があるということではありません。各地で焼かれた瓦が大坂城の各所に分配される体制が整っていたことがわかります。

集められた瓦は建物によって金箔を施す瓦とそうでない瓦に分けられ、建築現場の近くの工房で箔押し職人が箔を貼ったことが推測されるのです。どの建物にどの瓦が葺かれるのかによって、金箔瓦とそうでない瓦に分けられたと考えられます。
一方、家紋や馬印をあらわした瓦は一般的な軒丸瓦や軒平瓦とは異なり、供給される場所が製作当初から決まっていたものと考えられます。建物の設計段階で、金箔で飾る建物や部位が決められていたのでしょう。

以上、中村さんの新しい金箔瓦論を紹介させていただきましたが、大坂城から出土する金箔瓦を少し違った視点から見直す必要性を気づかせていただきました。
なお、最後になりましたが中村博司さんからは懇切なご教示をいただきました。心より御礼申し上げます。

※1 中村博司2003、「金箔瓦論-金箔瓦のプロデューサー」『日本考古学協会2003年度大会研究発表要旨』

※2 狩野永徳:天文12〜天正18(1543〜1590)、安土城、大坂城、聚楽第等の障壁画を描き、画壇における狩野派の地位をゆるぎないものとした。(『新版角川日本史辞典』1996)

※3 中村博司2019.「伏見指月城と禁中における金箔瓦の箔押し作業手間代注文について―「大中院文書」第一七二号文書の検討―」(大阪・郵政考古学会編刊『辻尾榮市氏古希記念 歴史・民族・考古学論攷(Ⅰ)』)

※4 大中院文書:大中院は京都市東山区に所在する臨済宗の寺院で、建仁寺の塔頭。その襖の下張りから見つかった豊臣時代の文書群。天正15年から文禄3年までの文書。現在、京都市歴史資料館に寄託されている。また、平成4年に京都市指定文化財となった。

※5 端裏書:文書の右端を端といい、折りたたんだ時に表となり、そこに主題や差出人などを書いたもの。(『新版角川日本史辞典』1996)

※6 指月城:文禄元年(1592)から慶長元年(1596)にかけて築かれた秀吉の隠居城。慶長元年の伏見地震によって倒壊した。そのため、指月の地の北東約1㎞の木幡山に新たな城が築かれた。取り上げた文書は、指月伏見城に関わる文書である。

※7 『兼見卿記』天正19年3月4日条に、内侍所が秀吉の命によって建て替えられ、諸道具ことごとく新調されたことが記されている。金箔瓦もこの時、新調されたものであろう。

※8 京枡:約1.8ℓに相当。戦国期に広く畿内で使用され、秀吉がこれを公定枡とし、全国に広がった。江戸時代から近代にかけても公定枡となる。

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