以前から大坂城の歴史についてご教示いただいている大阪城天守閣元館長の中村博司氏から、金箔瓦に関する論文を頂戴しました(※1)。中村さんは早くから金箔瓦についての論文をいくつも発表され、現在の金箔瓦研究の大枠を示された方です。今回いただいた論文の内容も思いがけないものでしたので、ぜひその内容を紹介させていただきます。その前に、金箔瓦の出現に関わる最近の調査事例を見ておきたいと思います。
図1.金箔の施文位置模式図
金箔瓦の出現は、天正4年(1576)に建設が開始され、同7年に完成した織田信長の安土城とする考えが一般的です。中村さんもその立場にたっています。
安土城の金箔瓦はその後に続く豊臣秀吉の大坂城(天正11年〜)や聚楽第(天正14年〜)、伏見城(天正19年〜)などの金箔瓦と特徴が異なります。安土城の金箔瓦は瓦当の凹部に細かな金箔を蒔き、大坂城の瓦は瓦当の凸部に金箔を押しています(図1)。金を定着させる技法が「金箔蒔き」から「金箔押し」へ、飾る部位が瓦当の「凹部」から「凸部」へと変化すると考えられているのです。
ところが、安土城の瓦も飾り瓦は凸部に金箔を施していますし、大坂城の瓦にも凹部に金箔を施したものがあります(※2)。安土城とそれ以降の金箔瓦は明瞭に区別できる反面、例外も含んでいるのです。
大河ドラマの「麒麟がくる」で注目を集める岐阜城(斎藤家時代は稲葉山城)の山麓にある織田信長公居館跡から建物の棟を飾ったと考えられる方形の「飾り瓦」(写真1・2)が出土しています。出土したのは平成20・22年度(2008・2010)の調査で、一見すると金箔は見られませんが化学分析の結果、金と漆の成分が検出され、金箔瓦であることが確認されたのです。平成25年(2013)に岐阜市の有形文化財(美術工芸品)に指定されています。
出土した地点は調査者がC地区と呼ぶ山麓の居館の中でもっとも面積が広く中心建物が存在したと考えられる場所です(※3)。牡丹文(写真1)は粘土板を60枚重ねて作られ、菊花文(写真2)は20枚の花弁を有するものです。方形の部分は28㎝あります。写真3は復元された金箔瓦で文様の凸部に金箔が貼られています。この飾り瓦の場合、凸部というより文様全体に金箔を貼ったものといえます。岐阜市の発表では、年代的に安土城の金箔瓦と同じか先行するものであり、城郭に金箔瓦を用いる日本で最初の例であろうと考えられています(※4)。
写真1.岐阜城信長公居館跡出土「牡丹文」?金箔飾り瓦
写真2.岐阜城信長公居館跡出土「菊花文」金箔飾り瓦
写真3.「牡丹文」?「菊花文」金箔瓦の復元
現存する駿府城は、慶長12年(1607)に大規模に整備・拡張された徳川家康の隠居城です。この城郭の下層に織豊期の城郭が眠っており、発掘調査が継続して行われています。その結果、多数の金箔瓦が出土し、そのほとんどが安土城と同様、瓦当の凹部に金箔を施す瓦であり注目を集めました(図1参照)。
駿府城の金箔瓦の評価には二説があります。一つは天正18年〜慶長5年(1590〜1600)まで駿府城を居城とした、秀吉家臣団の中村一氏時代(※5)のものではないかとするものです。もう一つは、天正14〜18年(1586〜1590)の間に居城としていた徳川家康時代のものではないかとするものです。いずれにしても、秀吉が大坂築城を開始する天正11年(1583)より新しいものと考えられています。従来の解釈であれば大坂城と共通する金箔瓦の特徴を持っているはずですが、安土城の金箔瓦に類似した特徴を持っているのです。
この事実からは様々な解釈が可能だと思われますが、金箔瓦の出現と展開が安土城から大坂城へ、信長から秀吉へという単純なものでなかったことが明らかになりつつあると言えるのではないでしょうか。
今回は新たに発見された金箔瓦の紹介に多くを費やしてしまいました。中村さんの金箔瓦論については、次号で紹介させていただきます。
最後になりましたが、岐阜城信長公居館跡の金箔瓦の画像につきましては岐阜市から提供、掲載許可をいただきました。記して深謝いたします。
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