前号では城の写真家、岡泰行さんが撮影された南外堀68号壁の写真から読み取れる刻印や石垣の特徴について紹介しました。今回はその東にある58号壁について紹介します。大坂城再築の丁場割図によりますと、東から豊前小倉・細川家、大和高取・本多家、近江大溝・分部家、美濃八幡・遠藤家、讃岐高松・生駒家、伊勢津・藤堂家の6家が築いた丁場となっています。
石垣の刻印については「築城史研究会」によって調査されており、成果の一部が『大坂城 石垣調査報告書』二(※1)に紹介されています。調査年月日は平成12年(2000)3月5日で、ちょうど20年前の状態が示されていることになります。この立面図と、今年撮影された岡さんの写真を比較して気付いたことを紹介したいと思います。
報告書に掲載された立面図の範囲を全景写真の中に示しました(写真1、58-1)。図の範囲は石垣東隅から測って10〜22mの約12m分が図示されています。立面図に示された刻印は東(右)から「九曜文」(細川家)、「〇に二つ引両」(本多家)、「〇に三つ引両」(分部家)、「〇に-」(遠藤家)があり、58号壁を分担した6家のうち4家の刻印がみられます(図1)。
写真1.58号壁全景と立面図、拡大写真の範囲
11m付近には上から下まで「九曜文」と「〇に二つ引両」の刻印が並んで刻まれています。笠石(※2)から数えて6石目のひときわ大きい「九曜文」(図1-①)は、直径約70cmあると報告されています。また、12mと18m付近の笠石直下の石に、「〇に二つ引両」の刻印(図1-②③)、22m付近に「〇に-」の刻印(図1-④)があり、そこから下に連続して同じ刻印が刻まれています。これらは丁場の境界を示していると考えられます。
しかし、分部家の丁場を示す「〇に三つ引両」の刻印は、遠藤家との境には連続して刻まれていますが本多家との境では認められず、本多家(「〇に二つ引両」)の丁場の中に「〇に三つ引両」の刻印が混在して分布する状況が見られます(図1・写真3)。
図1・写真2.「築城史研究会」調査の立面図と現状の写真
それでは、令和2年1月に撮影された岡さんの写真を見てみましょう。
全景写真を一見して気づくことは、中央から左よりに青みがかった色調の石が集まっていることです。前号で紹介しました68号壁でも豊後毛利家の石が他と異なる色調をしていることを述べました。同じように58号壁でも石の色調の違いが明瞭に確認できます。部分写真を見ますと、青みがかった石には「生駒車」の刻印が刻まれています(写真3・6)ので、この青みがかったエリアが生駒家の丁場であることがわかります。
図1と写真2は平成12年(2000)に築城史研究会が調査された立面図と、令和2年(2020)に撮影された岡さんの写真を対比できるように示しています。岡さんの写真には、笠石を含む26段分の石が写り、立面図には19段の石が描かれています。このことから築城史研究会が調査した20年前は、現在より水位が高かったことがわかります。現在石垣面に明瞭に残る変色のラインと立面図に描かれた最下部の位置がほぼ一致していますので石垣に残る変色のラインは20年前頃の堀の水位を示しているといえます。
写真3.58-3部分写真(矢印は丁場境の線刻、〇は生駒車刻印)
写真4.58-4部分写真(〇印は数字の刻印、本多家と細川家の境には丁場境の線刻があります)
ところで、南外堀の水が涸れた時期の58号壁を写した写真があります(写真5)。この写真には笠石から数えて33〜34段分の石が写っています。したがって、岡さんの写真に写った26段分の石の下に7から8段の石が水没していることになります。
写真5.南外堀が干上がった時期の58号壁の写真
58号壁の隅角部は東を細川家、西を藤堂家が担当しています。徳川期再築工事の最後となる第3期工事で築かれ、各大名家の石垣築造技術が統一されてきた時期とされています(※3)。
写真6.58-5部分写真、藤堂家と生駒家の丁場境(左が藤堂家丁場)
試みに細川家が築いた稜線をなぞり、反転させて藤堂家の石垣写真と重ねてみますとぴったり一致します。しかし、石の積み方を比べてみますと、藤堂家の石積は隅石の長さに合わせるように門脇石を2石配置する部分があります。一方、細川家の隅角部は隅石と門脇石1石が基本となっています。石の大きさや使い方に違いがありますが、築かれた石垣の稜線の勾配はよく合致しているのです。
58号壁全体の石の並びを見ますと、藤堂家の分担部分で石の並びが乱れる部分がありますが、全体として横目地はよく通っています。築造時に各担当家で十分調整が行われていることを示しているものと考えられます。分部家の刻印を打った石が本多家の丁場の中に多数含まれていることも(図1・写真3)、現場で調整を行っていたことを示しているのかもしれません。
58号壁で見られる刻印は、隅角部を担当した細川家と藤堂家を除けば大名家の指標となる単一の刻印で占められています。それ以外には数字を刻んだものがあり(写真4)、これは前回紹介した68号壁にも見られた石垣底からの石の段数だと思われます。
ところが、細川家の丁場では本多家との丁場境を示す場所に大きな九曜文を上下に連続して刻んでいますが、その東側では九曜文以外の刻印が数多く見られます(写真4)。これは、58号壁の他の丁場とは異なり、この刻印は細川家の中での分担などを示すものと考えられます。また、生駒家の西側を担当した藤堂家の丁場からは明確な刻印を見つけられていません。学生社刊行の『大坂城の謎』には58号壁の藤堂家の刻印が記録されていますので刻印はあるのでしょうが、細川家から生駒家までの丁場とはずいぶん異なる印象があります。このように58号壁の状況は、大名家によって石材に特徴があることや刻印の種類、打刻の決まりが大きく違っていたことがよくわかる事例といえるのではないでしょうか。
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