太閤秀吉が築いた初代大坂城の石垣を発掘・公開への取り組みと募金案内。

豊臣石垣コラム Vol.67

大阪城の撮影スポット 西の丸庭園からの眺望 その1

今月のコラムは城の写真家、岡 泰行さんの“大阪城の撮影スポット”第2弾です。 西の丸は、現在有料の芝生広場(開園日、料金等はホームページ参照)となっていますが、岡さんも紹介されていますように徳川期には城代屋敷や土蔵があり、豊臣期には秀吉の弟秀長の屋敷や、その後、徳川家康が本丸とは別にもう一つの天守を築いたとも言われているところです。本丸の賑わいから離れて、ゆっくりと大阪城らしさを体感できる場所といえます。

昭和40年に開園した総面積6.5haの大阪城西の丸庭園。敷地内の随所から、天高くそびえる天守を望むことができ、千貫櫓、乾櫓、焔硝蔵などの現存建造物や先日行われたG20大阪サミットで政府主催の晩餐会会場となった大阪迎賓館、パナソニックの創業者、松下幸之助が寄贈した茶室、豊松庵など見どころも多彩です。

江戸時代、徳川将軍から城を預かる大坂城代が譜代大名から任じられ、城を守るとともに西国雄藩に対し、にらみを利かせていました。西の丸の南半分には、城代が政務を執り行う場所と妻子の暮らす奥御殿があり、北側には倉庫が建ち並んでいたといいます。現在、庭園の南西にポツンと残された大きな井戸跡がありますが、これは城代上屋敷唯一の遺構です。

それでは、今回のおすすめ撮影スポットを見てみましょう。

大阪城二の丸は天守のある本丸をぐるっと囲む広大なエリア。曲輪内は防御のために築かれた「仕切」と呼ばれる石塁と城門で大きく4つのエリアに分けられていました。そのうちのひとつ、西の丸北側にある「北仕切」に足を運ぶと、城兵が上り下りするための「雁木」と呼ばれる石段があります(写真2)。その雁木を一番上まで登れば、大阪城の石垣群の風景の中で、壮大さに秀でた風景に出会うことができます(写真1)。眼前に広がる水堀、威風堂々とした天守と石垣、何度訪れても飽きが来ない風景で、幾人ものカメラマンがこの風景を収めてきました。

写真1.西の丸の北仕切から天守を望む

写真1.西の丸の北仕切から天守を望む

(眼前の曲輪は隠し曲輪)

この雁木は、西の丸庭園からのみ登ることができます。撮影に適した時間帯は午後。特に晴れた日の夕方は、太陽の光を正面に受けた天守が一段と輝いて見えるのでじっくりと狙ってみましょう。なお、雁木は急な角度ですので、くれぐれも上り下りにご注意を。

写真2.西の丸の北仕切

写真2.西の丸の北仕切

撮影スポット

撮影スポット

写真1眼前の曲輪は、登城中に見つけにくい場所にあるため、通称「隠し曲輪」と言われています。江戸期には一時期焔硝蔵(火薬庫)が置かれていたため厳重に守られ、立ち入りも制限されていたのだとか(隠し曲輪は玉造口付近にもう1箇所あります)。大阪城内の石垣には約2,000種類の刻印、5〜6万個の刻印石があるといわれていますが、この隠し曲輪の石垣にも多くの刻印が認められます。カメラのズームレンズで探してみてもおもしろいかもしれません。

写真3.隠し曲輪の石垣刻印

写真3.隠し曲輪の石垣刻印

(「○に十」は伊予大洲藩の加藤家、「○に二八」が丹波園部藩小出家の刻印)

写真4.玉造口の東側にあるもうひとつの隠し曲輪

写真4.玉造口の東側にあるもうひとつの隠し曲輪

(写真は東外堀から、曲輪内部には現在立ち入りできません。)

さて西の丸庭園でもう1枚。焔硝櫓を訪れましょう。焔硝蔵は火気や漏水から火薬を守るため、床や壁、天井や梁などが花崗岩で造られ、東西の入り口には二重の鉄扉があり、壁の厚さは2.4mもあります。石造りの焔硝蔵は国内唯一のもので、頑丈さが際だった珍しい櫓です(写真5)。また、外壁部分は風雨や日照の影響でかなり剥がれていますが、内部には天井に至るまで目地漆喰を見ることができます(石の隙間に塗り込められた漆喰)。城の風景としては非常に珍しい1枚が撮れることでしょう。

写真5.焔硝櫓の内部

写真5.焔硝櫓の内部

大阪城公園では、重要文化財の焔硝蔵、多門櫓、千貫櫓を2019年11月24日(日)までの土・日曜日と祝日、夏休み期間限定(7月20日(土)〜8月31日(土)(月曜定休)で特別公開が行われています。訪城の際には、足を運んでみてはいかがでしょう。

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