太閤秀吉が築いた初代大坂城の石垣を発掘・公開への取り組みと募金案内。

豊臣石垣コラム Vol.65

ビルの谷間に残る徳川期の石垣

大阪城外に残る徳川期の石垣

大阪城では傾斜地を造成するため、高い部分を削平し、低い部分に盛土するなどして階段状の造成工事が行われています。このような造成は大阪城外の傾斜地でも行われており、その痕跡である石垣が現在も残っている場所があります。今回は、大阪城周辺に残る徳川期の石垣遺構について紹介したいと思います。

大阪城の北西部に位置する大手前、京阪東口、天満橋、谷町1丁目の4ケ所の交差点に囲まれた地域は、南が高く北が低い高低差の大きい地域となっています。徳川期には、東町奉行所・西町奉行所が敷地の東西に置かれ、享保9年(1724)の大火によって西町奉行所が本町橋東詰に移転後も東町奉行所や代官所として利用された地域です。

現在の標高を見ますと、大手前で11.9m、京阪東口で5.4m、谷町1丁目で12.7m、天満橋で5.8mとなっており、南と北では6.5mから7mの高低差があります。この高低差は敷地境に段を造ることによって平坦地を造り出していますが、最も大きな段が大手前病院とその北側の大阪歯科大学敷地との間にあります。この段は現在では高い建物に挟まれて視認しにくくなっていますが、以前は、大手前病院の北側からホテル京阪天満橋の南側を通り、合同庁舎3号館の西で南に屈折する段がよく観察できました(図1)。

図1.調査地位置図

図1.調査地位置図(……は段差のライン)

この段の斜面には徳川期に築かれたと考えられる石垣が部分的に残存しており、近代に積み直されている部分はありますが、本来は段の斜面に徳川期の石垣が築かれていたと考えられます。

調査された徳川期の石垣

徳川期に築かれたと考えられる石垣は、現在ではホテル京阪天満橋の駐車場の背後で視認できるだけですが(写真1)、この石垣に連続する東の部分が昭和56年(1981)に実測調査されています(図1、※1)。報告書によりますと、調査前は地上に約2mの石垣が露出していましたが、工事の掘削によってその下から2.5m分の新たな石垣が出てきています。

したがって、石垣が築かれた時点では少なくとも高さ4.5m、段数10段の石垣が築かれていたことになります(図2)。地下に埋まった石垣には「九」「田」「△」「三」「一」などの刻印が見られ、特に「九」の刻印が全刻印の7割を超える比率を占めています。「九」の刻印は徳川期大坂城再築工事を担当した豊前・細川家や加賀・前田家の担当丁場でよくみられるもので、石材がどちらかの大名家が調達したものである可能性を示しています(※2)。

写真1.ビルの谷間に残る石垣(図1―❶地点)

写真1.ビルの谷間に残る石垣(図1―❶地点)

図2.石垣実測図(斜線は工事で石材表面が削られた部分)

図2.石垣実測図(斜線は工事で石材表面が削られた部分)

「大坂城跡(OS81-3次)発掘調査概報」より

周辺に残る段と石垣

調査された石垣は徳川期の東町奉行所の敷地境の石垣だと考えられますが、谷町筋を挟んだ西側でも大きな高低差があり、その斜面に石垣が残る地点があります。写真2は中央区石町1丁目と北側の天満橋京町の間にある斜面に築かれた石垣です。現在は土佐堀通りに面した建物と建物のわずかな隙間から石垣を垣間見ることができるだけとなっていますが、この石垣も徳川期以前の石垣ではないかと考えられます。

上町台地の縁辺にはこのような高低差を解消するための石垣や階段、坂道が今も数多く残っています。大阪城の周辺を丹念に観察していくと、ビルの隙間に残る忘れ去られた遺構が発見できるかもしれません。

※1:大阪市教育員会・(財)大阪市文化財協会1983「大坂城跡(OS81-3次)発掘調査概報」『昭和56年度大阪市内埋蔵文化財包蔵地発掘調査報告書』

※2:村川行弘1970『大坂城の謎』学生社

写真2.ビルの奥に残る石垣(図1―❷地点)

写真2.ビルの奥に残る石垣(図1―❷地点)

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