最近、知人から桃山陶磁に関する論文を送っていただき、豊臣時代の陶磁器の年代について考える機会がありました。本コラムでも以前、「ドラマの中の焼物と秀吉時代の焼物」として秀吉時代の陶磁器について紹介したことがあります。
大坂城は築かれた年代や焼亡した年代が明らかであり、発掘される地層の年代を想定することができます。それらの地層から出土する陶磁器は埋まった年代が推定され、年代の物指として利用できるのです。今回は大坂城が陶磁器の研究のうえでなぜ注目されるのか、その一端を紹介したいと思います。
発掘調査から大坂城の変遷を考える場合、秀吉が大坂城の築城を開始する天正11年(1583)から大坂夏ノ陣によって焼亡する慶長20年(1615)までの32年間を豊臣時代としています。この間の地層から出土する陶磁器を比べてみると、明らかな変化がみられます。
大坂城が築き始められた時には流通していない国産の施釉陶器が夏ノ陣の地層からは大量に出土するのです。このことは、これらの焼物が1583年から1615年までのどこかの段階で大坂に入っていることを示しています。
図1.豊臣時代に大坂で流通した国産施釉陶器と産地
これらの陶磁器は色彩も豊かで釉薬を使って文様を描いたり、器を意識的に変形させるなど、それまでの国産陶器にはなかった特徴をもち、「桃山陶器」と呼ばれています。日本の陶磁史の中で大きな変革の時期が豊臣時代のなかにあると考えられるのです。
大坂城で出土する国産の施釉陶器には大きく三つの地域の焼物があります。一つは九州、佐賀県を中心とした唐津焼(以後、焼を省略)(※1)、もう一つは岐阜県土岐市、瑞浪市、多治見市など東美濃を中心とする地域で焼かれる黄瀬戸や志野、織部などの美濃焼(※2)、そして窯の場所は不明ですが、京都や大坂で焼かれた可能性がある楽焼に類する「軟質施釉陶器」(※3)と呼ばれる焼物です(図1)。
大坂城など近世遺跡の発掘調査が行われるようになる以前は、これらの焼物の多くは秀吉が大坂城を築き始めた天正11年頃には焼かれていると考えられていました。しかし、発掘調査の結果、古い地層から出土するものと、1615年の大坂夏ノ陣の地層から出土するものは分類できることが分かってきました。
写真1.豊臣時代の志野(左)と唐津
写真2.豊臣時代の織部(左)と唐津
秀吉は慶長3年(1598)に伏見城で亡くなりますが、死の直前、大坂城を秀頼の居城とするため城を大きく造り変える大規模な工事を命じています。この工事の痕跡は大坂城跡の発掘調査で確認され、唐津や志野、織部などは慶長3年の工事後の地層から出土します(※4)。
このことは、誤解を恐れずに述べますと、秀吉は色鮮やかな桃山陶器の多くを知らなかった可能性が高いと考えられるのです。
もちろんそれぞれの焼物の出現時期には差があり、ていねいな検討が必要ですが、桃山陶器の出現時期が豊臣時代の中にあり、流通時期の中心が豊臣時代の後半にあることは間違いないと考えられるのです。
この事実は、それまでの陶磁史研究を再検討する契機となる大きな成果ということができます。また、九州で焼かれた唐津と美濃で焼かれた志野や織部に共通する器形や文様が施されるものがあることも出土遺物から分かっています(写真1・2)。大坂城跡は、桃山陶器の出現時期や変遷を明らかにすることができる重要な遺跡であるといえるのです。
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